「つかさ」と「ちひろ」
というジャンルが出来上がり。それが、
「シリーズ化する」
ということで、十年以上も、毎日のように、
「サスペンス劇場」
というものが、毎日のように放送されるということになったのだ。
もっといえば、
だから、清水巡査も最初は、
「自分も、傑作を書いて、文学新人賞に応募する」
と思っていた。
しかし、実際に何度か応募したが、
「一次審査にすら、一度も通過しない」
ということから、
「質より量」
ということに、方向転換したのだった。
本来であれば、
「一つの小説で、いろいろなトリックや謎を織り交ぜることで、一つの大作にする」
ということから、
「一つのテーマをもとに書く小説を、たくさんシリーズのように書けるようになればいい」
と考えるようになった。
そういう意味では、
「似たような話が多い」
というかも知れないが、それはあくまでも
「シチュエーション」
ということで、
「同じトリックや謎解き」
ということではない。
とは言っても、
「少しでも違えば、違うトリック」
ということで、今度は、
「シチュエーションにバリエーションを利かせる」
ということによって、
「いろいろな話に組み立てる」
ということである。
実際に、
「戦前戦後」
と呼ばれた、
「激動の時代」
における、
「探偵小説黎明期」
と呼ばれていた時代であっても、トリックというのは、
「すでに出尽くしている」
ということで、そのパターンが研究された時代もあった。
だからこそ、
「これからの探偵小説は、ストーリー展開であったり、謎解きというものに、バリエーションを加える」
といわれるようになったのである。
それが、
「2時間サスペンス」
というものが流行ることになったのだ。
「質より量」
という考え方は、学生時代のサークルに入っている頃から考えていたことだった。
性格的に、
「プロットの段階で、カチッとしたものを書きあヘル」
ということが苦手だと自分で思っていた。
どちらかというと、
「一つ何かを発想すれば、そこから、どんどん膨れ上がってくる」
というもので、ただ、清水巡査の苦手なこととして、
「時間をかけて考える」
ということが苦手だということであった。
つまり、
「思い浮かべば、どんどん自分の中で組み立てるストーリーが、本筋ということにすることで、一つの物語を完成させる」
ということであった。
だから、
「じっくり策を練る」
というよりも、
「思い浮かべた発想を、どんどん積み重ね、組み立てていくことで、一つの話にする」
ということに長けているということであった。
だから、学生時代から、
「清水は、小説を書き上げる時、あまり時間というものへの感覚がない」
と思われていた。
それは自分でも思っていることで、
「実際には、4時間くらいかかって書いているのに、自分の感覚としては、1時間しか経っていない」
という感覚だということである。
だから、小説を書くのも、
「あっという間に書けた」
ということで、
「スピードに関したは誰にも負けない」
という自負が、自分の取柄だと思うのであった。
だから、逆に、
「じっくり考える」
ということが苦手なのだ。
本来であれば、
「じっくり考えなければ、二重三重のトリック」
というものは描くことはできないということであろうが、清水の場合は、逆に、
「急いで思いついたものを、忘れないうちに、一つにすることで、たくさんの小説を書くことができる」
と思っている。
もちろん、
「プロ作家になりたい」
ということであれば、
「こんな陳腐な小説が売れるわけはない」
ということになるだろう。
だが、清水巡査は、まだ
「20代」
ということで、
「小説家になるには、まだまだ大丈夫」
といわれる年齢なので、
「老けこむことはない」
といわれる。
だが、自分の中では、
「プロ作家になりたくない」
という思いがある。
というのは、
「俺は、自分の書き方でしか書けないので、プロになると、出版社の言いなりで書かなければならなくて、実力を発揮できない」
ということになる。
というか、
「自分は、プロとしての実力があるわけではない」
ということを感じているので、余計に、
「人の言いなりではいやだ」
と思うのだった。
確かに、
「本を出したい」
あるいは、
「小説家になりたい」
という思いは、
「小説を書いている以上、誰もが考える」
ということであろう。
だが、あれは、今から約20年くらい前にあったという話であるが、
「本を出しませんか?」
という宣伝の下に、
「自費出版系の出版社」
による、
「詐欺事件」
というものがあったのだ。
自費出版社系の会社
そもそも、昔は、そこまで、
「作家になりたい」
という人はいなかった。
「バブル崩壊」
ということで、
「金のかからない趣味」
ということで、注目されたのが、
「小説執筆」
であった。
「にわか小説家」
というものが増えて、実際に、
「ただ、ブームに乗るだけで書いている」
という連中ばかりだった時代に、
「本を出しませんか?」
という宣伝文句で、会員を募る出版社があった。
「批評は必ず、作品を読んでから返す」
ということ、
「作品の内容によって、協力出版という形を推奨する」
というものであった。
これは、
「出版社、作者がお互いに折半で金を出して本を出す」
というものであった。
しかし、実際には、自転車操業による、
「詐欺商法」
ということで、途中まではブームに乗って、かなり会員がいて、一時期、出版社は儲かったようだが、実際に、本を出した人から訴訟を起こされ、結局、自転車操業がうまくいかず、
「破綻してしまう」
ということになったのだ。
本を出した人は、結局、本屋に置かれることもなく、金を出しただけで、そのお金が返ってくるわけもない。
それが、
「自費出版社系による詐欺」
というものだ。
結局、
「にわか小説家」
のほとんどが、いなくなり、元々の、
「趣味で書いている」
という人たちだけになったというのは、
「浄化」
という意味では、よかったのかも知れない。
「旧約聖書」
というものの中にある、
「ノアの箱舟」
の話のような、いわゆる、
「神が作った人間が、神の意志に逆らって、まったく違う世界を作ってしまった」
ということで、神が人間社会を浄化するために起こした大洪水」
この話は、きっと、
「大洪水という、未曽有の大災害が起こった時、それをあたかも正当化されるために、
「神による浄化」
というものにすり替えるということが、いいのか悪いのかは分からないが、この発想は、ありではないだろうか?
それが、
「因果応報」
であったり、
「自業自得」
ということになりかねないのだ。
それを考えると、人間というものが、この世で生きるためには、神のような、人間を超越する存在を考えないと、自然災害などを理解することができないということであろう。
作品名:「つかさ」と「ちひろ」 作家名:森本晃次



