小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

数学博士の失踪(後編)

INDEX|9ページ/16ページ|

次のページ前のページ
 

「権力の前では、すべてがひれ伏す」
 ということになり、その中では、
「精神疾患者というものは、その視界にすら入らない」
 と言えるのではないだろうか?
 あくまでも、
「法律や世の中の風潮」
 というものが、精神疾患者というものの存在を伝えるというだけで、自分の中での現実には。
「そんなものは存在しない」
 ということになるのであった。
 まどかは、そんな社会の仕組みというものを分かっているわけではない。
 いまだ高校生で、今から大学受験ということで、
「受験戦争」
 というものを、
「当たり前のこと」
 としてしか理解していない。
 実際には、
「大学受験というものが、大人への階段と考える」
 ということであった。
 その考えは、ほとんどの高校生が思うものであり、大学受験を考えたが、実力が及ばないということに気づかされる人もいる。
 さらには、
「先生から、引導を渡される」
 という人もいて、
「志半ばで、大学受験、さらには、その先にあるエリートコースをあきらめる」
 ということになるのだろう。
 まどかは学校のことしか分からないが、会社の方のことも、少しは考えるようになっていた。
 それでも、どこまでが見えているかということが分かるはずもない。
 実際に、父親が、会社員というわけでもない。母親も、元大学院生だということで、まどかの家は、
「学者一家」
 といってもいい。
 そういう意味で、
「自分も心理学の道を」
 と考えたのも、無理もないことだと思い、何の疑いもなく、勉強をしているのであった。
 まどかが、将来、
「心理学者になれるかどうか?」
 というのは、いまだ未知数ということであるが、父親の筒井博士は、
「うちの娘なら、できそうな気がする」
 と思っていた。
 それは、
「親としてのひいき目」
 ということではない。
 まどかとの会話の中で、何か光るものを見つけたということであろう。
 それが、どのようなものだったのかということは、自分でもよくわかっていないが、それが分かったとしても、自分とは少し違ったところを歩んでいるので、
「まず分かることはないだろう」
 と思うのだった。
 というのは、
「同じような道を、違う道から歩いている」
 ということで、それこそ、
「交わることのない平行線」
 をイメージしていた。
 それは、親子で同じようなイメージを抱いているのであり、それが結局、
「お互いに犯してはならない領域」
 というものであることを感じていた。
 それこそ、
「絶対領域」
 といってもいいものかも知れない。
 この言葉は、違う意味で使われる、若者言葉だという。
 しかし、まどかも、筒井博士も、
「そんな俗っぽい言葉」
 というものを知ることはなかった。
 二人はそれぞれに、
「自分は他の人とは違うんだ」
 ということを感じていた。
 それこそが、
「自分というものを証明する、唯一の手段だ」
 と考えていたのだ。
 それがいわゆる、
「エリートの考え方」
 と言えるのではないだろうか?
 そもそも、エリートというのがどういうものなのか、二人には分かっていない。
 それこそ、
「官僚」
 のように、国家試験をパスして、そこから敷かれたレールを歩むということである。
 しかも、これは他の人とは、決定的な違いがある。それが、
「加点方式」
 というものと、
「原点方式」
 というものの違いと言えるだろう。
 エリートと呼ばれる、いわゆる、
「キャリア組」
 というのは、原点方式である。
 というのは、
「最初のスタートは100点満点から始まる」
 ということで、そのキャリアとしての経歴の中で、少しでも失敗すると、どんどん減点されるというものだ。
 しかし、ノンキャリアというのは、最初が0点から始まるということで、そこからの出世ということであり、いわゆる日本で言われるところの、
「年功序列」
 というものだ。
 官僚ともなると、テストがそこに入ってくるのだろうが、普通の会社であれば、いまだに、バブル崩壊前の、
「年功序列」
 というものが生きているだろう。
「ある程度の年齢になれば、階段式に出世を果たす」
 ということで、そこに、実績が加われば、他の人よりも出世が早いということになるだけだ。
 しかし、ノンキャリというのは、
「どんなに頑張っても、キャリア組に追いつくことはできない」
 ということだ。
 最終的な階級はほとんど決まっていて、それ以上には、絶対になれないのだ。
 もしなったとすれば、
「それまでの、キャリアという体制は、根底から覆ることになり、それは、官僚という組織の中で、あってはならない」
 ということになるわけである。
 だから、
「キャリア組は、生まれ持ってのエリート」
 といってもいいだろう。
 それがいわゆる、
「交わることのない平行線」
 ということで、
「絶対に、エリートを超えることはできない」
 と言える。
 それを考えると、
「江戸時代における、士農工商と呼ばれた身分制度」
 というものを思い起こさせる。
 つまりは、
「武士に生まれたものは、死ぬまで武士。他の職業も、死ぬまで一緒」
 ということである。
 これは、職業を勝手に変えることはできないというもので、そうしておかないと、勝手に職を変えられると、幕藩体制というものが揺らぐからだということである。
 あくまでも、
「差別による身分制度」
 ということではなく、
「自分たちが国を治める」
 ということにおいて、仕方のない政策だったということなのかも知れない。
「身分制度」
 というのは、いわゆる、
「差別」
 ということを中心に考えられるが、そういうことではない。
 それは、やはり古代や、アメリカ初期における。
「奴隷制度」
 というものが存在下世界情勢から見えてくるというもので、そもそも、日本の歴史の中で、見えている部分において、
「身分制度」
 というものは存在しないということである。
 それを考えると、
「身分制度」
 というものが、奴隷制度に基づくものではないということから、
「本当の差別問題」
 というものとは、切り離して考えなければいけないものなのではないだろうか?
 父親は、数学博士として、
「どんな研究をしていたのか?」
 ということを、まどかは知らない。
 前は、
「そんなことを知りたくもない」
 と思っていた。
 それは、
「父親は父親、自分は自分」
 ということで、
「いくら父親といっても、人間的には他人だ」
 と思っていたことから、
「他人と同じでは嫌だ」
 という考えから、余計にそう思っていた。
 しかも、父親も同じ考えだと考えていることが分かると、余計にその考えに固執するということであった。
「お父さんの考え方が、遺伝したのかな?」
 とも思ったが、ハッキリとそうだとは言い切れない。
 それを考えると、
「お父さんがどこに行ってしまったのか?」
 ということも、
「何かの犯罪に巻き込まれた」
 という考えよりも、
「自分から姿を消した」
 と考える方がしっくりくるという風に考えていた。
 この考えは、わりかし早くから考えていたということであり、