数学博士の失踪(後編)
というものが、錯覚というもので成り立っているという考えになるということであったのだ。
それを思えば、
「あの街で、あるはずのバーがなかったというのも、何かの錯覚か、それとも、遠藤探偵の思い違いだったのかも知れない」
ということだ。
さすがに、数か月で、まったく違う光景になっているというのはあまりにもおかしなことであり、遠藤探偵に大きなショックを与えたというのも、無理もないことであろう。
そんなことを考えると、その場所が一種の、
「偽りの世界と言えるのではないか?」
などと考えるのであった。
デジャブの店
実際にその場所に行ってみると、遠藤探偵の顔は、蒼白になっていた。どちらかというと最初から冷静なのは、まどかの方で、まどかとすれば、
「遠藤探偵が我を忘れたおかげで、私が正気でいられた」
と思っている。
もし、遠藤探偵がもう少ししっかりしていれば、まどかもどうなっていたか分からないと思っている。
「私が我を忘れていれば、どうなっていたんだろう?」
とまどかは考えた。
今までのまどかは、あまり人に頼るようなことはなかった。そもそも、学校でもそんなに友達と一緒にいるわけでもないので、一人でいると、人に頼るということを忘れてしまっているのだろう。
学校などで、
「人は一人では生きられない」
ということを習ったり、テレビドラマなどでは、そんな表現のことを聞いたりしたが、一向に自分の中でピンとくるわけではない。
「人に頼るって、どういうことなのかしら?」
と考えている。
両親に頼るということは、子供だからしょうがないことだとは思っているが、それが他人ということになると、まったく分からない。他の人は、
「他人に頼ると、余計な気を遣わなければいけない」
といっている人もいるが、それすら意味が分からない。
それだけ、家族と他人との間に大きな距離というよりも、溝のようなものがあるということなのだろうが、その溝の深さというものが、ピンとこないのであった。
自分が人に頼るということを考えないのは、人が信じられないからであろう。それこそ、
「人を信じると、痛い目に遭う」
と考えているからで、世間でよくいう、
「詐欺事件」
などというのもそれであろう。
ただ、詐欺というのは、あくまでも、
「相手を騙してやろう」
という意思の下行われる犯罪であり、相手の感情などというものは無視している。
そんなことを考えて、状にほだされるようなことがあれば、詐欺という計画は、その時点で頓挫するからであろう。
だから、
「血も涙もない」
という人間でなければ、詐欺などできないといってもいいかも知れない。
昔の映画などでは、
「詐欺をした人間が、相手の人情に触れることで、自分が分からなくなり、苦悩することで、詐欺が失敗して、自分の人生も大きく狂わされる」
という物語を見たことがあった。
それこそ、
「社会派ミステリー」
というか、
「人情物語」
という様相を呈したお話だった。
しかし、今の時代の詐欺というのは、そういうものではない。
完全に、騙される相手に対して、感情が湧かないように考えられている。
そもそもは、警察の捜査を逃れるため。つまりは、捜査をしても、首謀者である人間にまでたどり着かないように、それぞれを分業制にして、しかも、その命令を与える人間が、どこの誰なのかということも分からないようにしているのであるから、当然、犯罪が露呈しても、その主犯であったり、犯罪組織の全貌というものは、分からないということになるのであった。
そんな詐欺事件の話を聞いていると、
「下手に信じれば、騙される」
ということが当たり前の時代なのだと思う。
特に、
「振り込め詐欺」
「オレオレ詐欺」
などから始まる一連の詐欺事件というのは、あっという間に、その手法がネズミ算式に増えていき、警察のサイバー犯罪の捜査というのも、なかなか追いついていないことだろう。
それだけ、犯罪っも多種多様化しているということで、
「住みにくい世の中になったものだ」
といってもいいだろう。
そんなことを考えていると、
「父の失踪」
というものが、いかなる理由があってのことなのかということが、余計に分からなくなってしまった。
しかも、遠藤探偵がいう、
「初めて出会った場所」
というものが、忽然と消えていたということが、
「本当にそんなことがあるのだろうか?」
ということである。
それこそ、何かの錯覚がもたらしたものではないだろうか?
本来であれば、見えているものが、何かのタイミングか錯覚で、見えるものも見えなかった。
しかも、遠藤探偵の、
「顔面が蒼白だった」
ということで、その遠藤探偵の素振りを見て、
「それがすべての答えだ」
とでもいうように感じてしまったのかも知れない。
本当は、見えているものが見えなかったというのは、それが錯覚だということになれば、それこそ、
「石ころのようなもの」
といってもいいかも知れない。
いわゆる、
「路傍の石」
というものであるが、あまりにも、そこにあるのが当たり前すぎて、見えるものが見えないという錯覚になるというものだ。
それだけ、人間の意識というのは曖昧なものだと言えるかも知れない。これが、路傍の石という錯覚によるものだと意識すればするほど、却って見えるものが見えなくなるという心理が、人によっては働くのかも知れない。
そのことは、一種の精神疾患と考えることもできる。
二重人格性ということで、性格的に両極端な自分がいるということで、
「ADHDではないか?」
と自分を疑っているという人も少なくはないだろう。
しかし、もしそれを疑って、精神科の病院に行って、
「ADHDです」
という診断を受けるのが怖いという人も結構いるだろう。
そんな診断を受けてしまうと、
「入院勧告」
であったり、
「休職勧告」
というものを受けることになるだろう。
そうなると、当初はいいかも知れないが、雇っている会社からすれば、
「精神疾患の人間」
というものを、いつまでも雇うというわけにはいかないだろう。
確かに、
「精神疾患だから首にする」
ということは簡単にはできないが、実際の世の中が、そんな、
「障害者に甘い世界だ」
というわけではない。
いろいろと、障害者に対して、保護団体や、支援団体があるのも事実だが、実際の社会は、そんなに甘くはないだろう。
最初から、障害者に寛容な世界であれば、それこそ、支援団体などというものが、そんなに注目されるということもないからだ。
それを考えると、心理学を研究しているまどかとすれば、
「この世において、自分たちの存在というのは、必要なのかも知れない」
と感じた。
その一方、父親がやっている、
「数学者」
というものが、本当に必要なものなのか?
と考えることもあるという。
なるほど、数学者の存在というのは、科学分野において、切っても切り離せないところがある。
作品名:数学博士の失踪(後編) 作家名:森本晃次