数学博士の失踪(後編)
それこそ、
「夢にでも見たのかも知れない」
と感じたのであって、その夢というのが、正夢だったのではないかと思うのだった。
正夢というのは、今までに何度か見たような気がしていた。それが、自分の中で、意識して見たというものなのか、それとも、気が付けば見ていたというものなのかということが、正直分かっていなかった。
ちょっと考えてみると、気が付けば見たということであれば、それこそ、正夢というものだと思うのだが、逆に、意識してみたということであれば、それは、別の意味での夢ではなっかと感じるのだった。
それが、
「予知夢」
と呼ばれるものではないかと思っていた。
無意識に見るのであれば、それは、何かの外的な力が働いていると言えるだろう。しかし、意識して見る夢というのは、外的な力ではなく、自分の中にある力ということで、それが、自分の意識の中の感じているというよりも、思っているということが左右していると考えると、
「潜在意識」
というものが頭をよぎるのだ。
そもそも、
「夢というものは、潜在意識のなせるわざ」
ということであれば、そこには少なからず、見る人の力が働いているといってもいいだろう。
それが、予知能力というものであると考えて、
「予知夢」
という言葉で表されると思う。
予知能力というものが、何かの超能力のようなものだと思われているということから、
「予知夢がそのまま、超能力の一部」
と考えれば、
「予知夢というのは、意識して感じることである」
と言えるであろう。
人間の中で、予知する力というものが存在するかどうか、正直断定はできない。
しかし、心理学を志す者としては、まどかの中では、
「超能力の存在」
というものを鵜呑みにはできないが、むげに信じないというのも、何かが違うのではないかと思うのだった。
実際に、
「人間は、自分の脳の1割も使っていない」
ということが証明されているという。
だとすれば、それを少しでもたくさん使えるということになれば、その中に、能力といってもいい力が潜んでいるといってもいいだろう。
そういう意味で、
「夢というのは、いい意味でも悪い意味でも、都合よくできている」
と言えるのではあないだろうか?
なるほど、
「もう一度見たい」
と思う夢を、自分の中で、
「二度と見ることはできない」
と感じることで、本当に、見ることができないのが夢である。
しかし、人によっては、
「夢の続きを見るなんて、簡単にできる」
という人もいる。
逆に、
「どうして見れないと思ったんだ?」
と言われる。
なるほど、確かに、
「もう二度と見られない」
という根拠はどこにもあるわけではない。
自分の中で、勝手に、
「見ることができない」
と思い込んでいるだけではないか。
それが、勝手な思い込みというわけで、悪い意味での都合のよさということになるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「潜在意識というのは、いい意味でも悪い意味でも都合よくできているものの総称ではないか?」
と考えられるのだ。
実際に、遠藤探偵のいうように、その言葉を信じてここまで来たのに、その遠藤探偵も、
「信じられない」
というくらいの出来事に、まるでキツネにつままれたような気分がした。
遠藤探偵は、その時、完全に意表を突かれたみたいで、それ以降の自分の行動を想像するということができなくなっていた。
結局、その日は、そのまま送ってもらえるということになったのだが、まどかとすれば、
「架けられたはしごを外された」
という気分になっただけで、それこそ、
「置き去りにされてしまった」
といってもいいだろう。
まどかとすれば、
「連れてこられた」
というだけで、進展がなかったというだけである。
ただ、もちろん、
「お父さんの消息が少しでも分かれば」
という気持ちに変わりはない。
しかし、肝心の遠藤探偵の精神状態が、それどころではないということであれば、どうすることもできないであろう。
まどかは、その日の帰り、駅まで遠藤探偵に送ってもらった後、家に帰る途中にある神社に立ち寄った。
駅の近くではあるが、小高い丘のようなところにある神社は、それこそ、昔の村だった時代には、このあたりの、鎮守様ということだったのだろうというイメージを持っていた。
鳥居は赤い木造で、かなり古くからあるのだろうが、それを感じさせないほどに、てかっているのが分かる気がする。
それこそ、ニスでも塗っているのではないかと思うほどに光り輝いていて、
「本当に鎮守様だ」
と思っていたのだ。
実際に、お参りにくるということは、あまりなかった。
それこそ、夏祭りの盆踊りでもなければ立ち寄ることはなかっただろう。
ただ、幼稚園の頃、その裏がちょうど幼稚園だったということもあり、その神社に対しての思い出は、幼稚園の頃のことだけではないかと思っていたのだ。
確かに、幼稚園の頃にはよく来たもので、その時には、
「もっと大きく感じたような気がするな」
というものであった。
もちろん、今は自分が大きくなったので、実際に記憶に残っている祠や庭というものが、想像以上に小さかったというのは当たり前のことで、
「小学生の頃に、もう少し来ていれば、これほどの錯覚を起こすこともなかっただろうに」
と感じるのであった。
それも、何かの心理というもので、
「幼稚園の頃の記憶に間違いない」
というものでも、実際には、記憶していたことが、まるで錯覚だったかのように感じるというのは、
「年月のせい」
というだけではないような気がする。
そもそも、
「時系列というものが、そのすべての記憶の順番通りなのかどうか?」
とは言えない気がした。
もちろん、順番が違っているということであれば、それは、錯覚に違いないということになるだろう。
しかし、
「幼稚園や小学生の頃の感覚と、中学生以降とでは、時間の感覚が、よじれているような気がする」
ということであった。
それは、
「小学生の頃は、一日一日というものが、なかなか経ってくれないと思っていたが、逆に、一年単位を思い出そうとすると、あっという間だったような気がする」
というものだ。
逆に、中学生以降では、
「一日一日があっという間だったのに、一年間で刻むと、結構長かったかのように思う」
ということである。
これは、その時々を単独で思い出そうとして、比較対象がないことで、そう感じるということなのではないだろうか?
つまりは、
「時系列というものと、実際に離れている時間というものが、錯覚することによって、その時間の捉える範囲によって、まったく違った感覚になるのではないだろうか?」
というものであった。
まどかは、家に帰る前にその鎮守に寄った時、そんなことを考えていた。
そもそもは、
「幼稚園の頃が懐かしい」
という思いで踏み込んだ鎮守というものであったが、過去を思い出すには格好の場所だったということで、
「時系列と、時間の間の距離」
作品名:数学博士の失踪(後編) 作家名:森本晃次