数学博士の失踪(後編)
「昭和の時代には、精神疾患は隠すべきこと」
ということで、その時代の精神疾患は見えないところの数字が大きかったのではないだろうか?
今の時代には、子供の頃の苛めであれ、大人になってからの、いわゆる、
「ハラスメント」
と呼ばれる嫌がらせのようなもので、
「誰がなってもおかしくないというのが、精神疾患だ」
と言われるようになった。
だから、今では、精神疾患の人間の数というのが、爆発的に増えたと言えるだろう。
しかし、逆に昔の時代は、
「隠さなければいけない」
と世間で思っているのと同じで、その疑いのある人というのも、
「知られては困る」
ということで、必至で隠そうとしていたのかも知れない。
それこそ、
「あそこの家の誰々は、精神病なんだ」
などというウワサが立つと、
「あそこの家族とは関わってはいけない」
などということで、村八分の目に遭うというのが当たり前だったということで、よほど目に余りでもしない限りは、病院に行くということもなかっただろう。
したがって、統計上の精神病の人数というのは、実際よりも相当少ないということではないだろうか。
そんな時代と今とではまったく違っているといってもいい。
しかも、
「会社や学校では知られてはいけない」
と言われていた昔とは違い、
「精神疾患というのも、社会問題ということで取り上げられるようになったことで、研究というのもかなり進んできた」
といってもいいだろう。
実際に、
「昔にウケていた診断と今とでは、まったく違っている」
と言えるだろう。
特に、うつ病と言われるものなのその一つで、昔であれば、
「躁鬱症」
と言われていたものも、今では、
「双極性障害」
というもので言われるようになり、ハッキリと、
「脳の病気」
ということになっている。
昔はその正体がわかっていなかったりすると、
「自然と治る」
ということから、それこそ、
「病気というのは、気の病だ」
と言われていて、
「精神で治す」
という、それこそめちゃくちゃな理屈で治そうとすることもあった。
本来であれば、れっきとした内臓の病気ということなので、薬物療法が必要なのに、
「気の持ちよう」
などといって、精神論で片付けようとする。それこそ野蛮な考えが蔓延っていたことである。
特に、
「精神病」
であったり、
「部落問題」
ということで、道徳問題が社会問題ということになった時というのは、何でもかんでも、
「精神論でかたをつける」
という風潮があった。
「気持ちがたるんでいるから、病気になるんだ」
などという乱暴な考えであった。
今は、逆に、
「いじめ問題」
などというのは深刻になってきた。
だから、問題が大きくなるにつれて、
「デリケートな部分を孕んでいる」
と言われるようになった。
だから、研究も進むということであり、精神疾患というものが、かなり細分化され、さらには、その病状というのも、同じ名前の疾患でも、人それぞれということになるわけだ。
それこそ、
「人の数だけ疾患がある」
といってもいい。
さらには、
「一人の人間が、いくつもの精神疾患を持っている」
といってもいい。
例えば、
「双極性障害に、ADHDに、アスペルガーに、統合失調症」
などと、複数の病気を併発しているということである。
だから余計に、
「専門医」
というものが存在し、さらには、その人それぞれで、主治医というものが決まっていないと、誰でもいいという訳ではないだろう。
そんな精神疾患を患っていると、今では、認められた病気ということで、精神疾患は、
「精神障害」
ということで、障碍者手帳を持つということで、社会的に保護されるということもあるというわけである。
しかし実際には、法律では保護されるべきということになっていたとしても、それを運用する行政とすれば、
「できれば、金を出したくない」
という思いから、精神疾患者に対しての条件を厳しくしてみたりする。
それこそ、
「人によって違う」
という曖昧さから、ごまかす方からすれば、都合よく解釈することもできるということで、障害者に対して厳しすぎるということで、理不尽な目に遭っているという人も少なくないのである。
今の時代において、確かに、
「障害者年金」
という制度が確立されて、昔に比べれば、かなりよくはなっているのかも知れない。
しかし、実際に、
「保護されている」
と言い切れない人もいる。
それこそ、
「一般的に平均的なラインから見て、本来であれば、十分に保護されるべき人も、自治体の都合のいい解釈というもので、差別的な待遇を受けている」
という人だっているというのだ。
それこそ、
「人それぞれ」
という言葉は、どちらの立場の人にも言えることなので、結局は、その力関係というものが、最後にはモノを言うということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「今の時代の精神疾患の人間にこそ、差別というものや、格差は生じるのではないだろうか?」
ということである。
その条件を決めるのも、自治体なのだろうから、
「地域制で、違うということも十分にありえる」
と言えるだろう。
そもそも、
「解釈する人の胸三寸」
というのも、いい加減なことである。
確かに、
「国民の税金を使って、年金として出している」
ということなので、そこは厳しくする必要もあるということになるであろうが、これが、
「生活保護」
というものと絡んでくると厄介なことになるだろう。
何といっても、生活保護というのは、
「生きていくうえでの最低限の生活を守る」
ということからなので、
「贅沢は許されない」
というのも当たり前だ。
そもそも、生活保護は、それがもらえるのをいいことにして、不当利得をしているという案件が多かったことである。
いわゆる、詐欺行為といってもいいのだろうが、本来の、
「もらうべき立場にある受給者」
という人には、本来であれば、そんなことは関係ないということで、一番悪いのは、
「不当利得者だ」
ということである。
だが、それを警戒し、取り締まりを優先するあまり、本来では守らなければいけないという人を差別することになるというのも、本末転倒だということになるだろう。
生活保護受給者の中には、
「精神障害者」
という人もかなりいることになる。
そもそも、それらの中には、結構な割合で、
「社会問題の犠牲者」
ということで、その原因が、
「ハラスメント」
であったり、子供時代の、
「いじめ問題」
ということであったりするので、そんな人には、文句なしで受給させてもいいのではないかと思う。
だが、それも確定的ということではないので、それこそ、
「詐欺集団の餌食になる」
ということではないだろうか?
遠藤探偵と一緒に、父親と最初に知り合ったというバーにいってみることにしたまどかだったが、まさか、その場所がないとは、思いもしなかった。
しかし、少し冷静になって考えてみると、
「何となく予感めいたものがあったのではないか?」
と感じるから不思議だった。
作品名:数学博士の失踪(後編) 作家名:森本晃次