数学博士の失踪(後編)
「道徳やモラルの問題」
ということで、学校でも、
「道徳の授業」
というものが取り入れられるようになった。
それでも、自分の子供を心配するあまり、親とすれば、
「あの子は特殊学級に入っている子供なので、近づいてはいけない」
という教育をしていたのだ。
まるで、
「バイキン扱い」
といってもいいだろう。
子供とすれば、
「母親がいうのだから」
ということで、優先順位としては、
「先生よりも母親」
ということになるので、親のいうことは絶対だとまで感じている子供もいたことである。
何といっても、子供の教育というものは、
「学校では先生。しかし過程では親」
というものということで、教育の役割分担ができていた。
とはいえ、実際に子供がぐれたり、まじめに勉強をしないなどというと、
「学校は、親のせいにして、親は学校のせいにする」
という泥沼の戦いを演じることがある。
それこそ、
「役割分担の弊害」
といってもいいだろう。
そんな時代が、次第に、
「受験戦争の時代」
というものに進むことで、学校教育というのは、
「底辺を切り捨てる」
というやり方になったのだ。
そうなると、
「成績の悪い生徒は、落ちこぼれ」
ということで、学校では、どんどん置いて行かれるということになる。
そんな状態において、落ちこぼれた生徒は、学校での居場所というものがなくなり、自然とグレてしまうということになるだろう。
そうなると、
「学校を辞め、街のチンピラの仲間入りをする」
ということから、
「完全に社会から弾かれた存在になる」
ということだ。
そうなると、本来であれば、卒業するはずだったその日に、
「お礼参り」
と称して、学校に乗り込み暴れまくったり、元々自分をこんな風にした先生に対して、報復をするということになるのだ。
それが、
「落ちこぼれ問題」
ということで、それこそ、
「受験戦争が招いた弊害」
ということである。
さすがに、大きな問題ということで、文部省も考えることになり、
「ゆとり教育」
ということに舵をきることになった。
社会では、
「週休二日制」
というのが完全に浸透したことで、
「学校も、週休二日制」
ということにシフトしていったのだ。
しかし、ここにも大きな問題があり、
「決められた一年間のカリキュラムを、週休二日制ではとても賄えない」
ということになる。
実際に、
「ゆとり教育」
ということを行えば、
「学力の低下」
というものはまったく免れないということになり、それが今度は問題になった。
つまりは、
「どちらにしても中途半端でしかなかった」
ということになるだろう。
そして、今の学校はというと、
「先生というのは、ブラックの典型例だ」
と言われるほどになり、それこそ、
「すべてが、教師に押し付けられる」
というようなことになってきたということである。
学校ではそんな状態であるが、その間に、社会は、
「大きな変革期」
というものを迎えていた。
それが、
「バブルの崩壊」
というものであった。
それまでの昭和という時代は、
「不況と好景気を交互に繰り返していた」
ということで、不況という時代は、
「中小企業であったり、町工場などが軒並み潰れていく」
ということで、そんな会社の社長さんたちが、頸をくくるなどという悲惨な時代もあったということであるが、それでも、しばらくすると、好景気に転じるということで、そこまで社会問題が尾を引くということもなかった。
もちろん、その時期は、
「とんでもない時代」
ということで大変だったのだろうが、時代が好景気に移行すると、人間というのは現金なもので、そんな時代の悲惨なことを忘れてしまうということであった。
しかし、
「バブルの崩壊」
というのは、もっと深刻であった。
そもそも、
「バブル経済」
という、未曽有の好景気というものが、その崩壊の前にはあったのだ。
「商売を拡大すればするほど、会社は儲かる」
ということで、誰もが、
「金儲けに走る」
ということであった。
企業はもちろん、個人までが、株を買ったり、土地を買ったりしていた。誰が、
「こんな好景気が終わる」
などということを考えたであろうか。
それこそ、
「金儲けに乗り遅れてはいけない」
ということであった。
特に、
「銀行は潰れない」
という神話があり、もし危なくなっても、銀行が助けてくれると思っていたことだろう。
何といっても、銀行も自分のところの利益を考えて、
「金儲けの口」
というものを、営業するということに終始していたからである。
そもそも、銀行の利益というのは、
「金を貸し付けて、その利子や手数料を頂戴する」
ということで生まれるのが利益である。
だから、相手が、
「貸してほしい」
といってきた金額に上乗せする形で、
「でしたら、これくらいお貸しします」
ということになるのだ。
それを、
「過剰融資」
ということであり、銀行とすれば、
「元本はもちろん、その利子が大きくなった分も利益になる」
ということで、ありがたかったであろう。
成績は、どの会社も、
「売り上げ一本」
つまりは、
「売り上げさえ上げれば、利益は勝手についてくる」
という考え方であった。
実際に、バブル経済というのは、
「積極的になればなるほど儲ける」
ということで、それこそ、
「24時間戦えますか?」
ということで、誰もが、
「企業戦士」
と呼ばれ、バブル経済をお祭りのごとく考えていたことだろう。
しかし、実際には、
「好景気と不況というものを交互に繰り返していた」
ということを忘れてしまっているのだ。
それはあくまでも、昭和時代のことであり、
「好景気は永遠に続く」
ということを信じて、誰も疑わなかったということであろう。
しかし、
「神話というのは、もろくも崩れた」
ということで、
「バブル崩壊:
というものが、最初にどのような形だったのかというと、本来であれば、
「絶対に潰れない」
と言われた、
「銀行不敗神話」
というものの崩壊にあった。
つまり、まず大きな問題が発生したのは、
「銀行の破たん」
ということであった。
もちろん、最初には、企業の破綻というものがあったかも知れないが、バブル経済自体が、そもそも、大きなもので、少々のことは、見えてこないということから、そんなに大きな問題とは思われなかっただろうが、さすがにそれが、銀行の破たんということであれば、そう簡単な問題ではないだろう。
さすがに、
「バブル経済の永遠」
というものを信じて疑わなかった人も、
「銀行の破たん」
というものには、驚きと驚愕で、顔が青ざめたかも知れない。
しかし、その時点では、もう時すでに遅しということになるのだ。
実際に、
「バブル崩壊」
というものを誰かが予測したとしても、
「前もって分かっていれば」
ということになるだろうか。
たぶん、
「ばあブル経済は長くない」
ということを提唱する人がいたとしても、
「そんなバカな」
作品名:数学博士の失踪(後編) 作家名:森本晃次