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数学博士の失踪(後編)

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この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、説定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和7年9月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。

                 プロローグ

 前編では、数学教授で、マイナスに関する研究をしていて、近々その研究を学会で発表し、いよいよ、名実ともに博士というものになるという時点において、行方不明になるということであった。
 その数学教授は、筒井教授と言った、
 実際には、一日だけ帰ってこなかったというだけのことなので、警察に今の時点で捜索願を出すというのも、時期尚早な気がする。
 警察というところは、正直、事件が起こらないと何もしない。つまりは、事件性がなければ動かないということである。
「一日帰らないだけだったら、どこか知り合いの家にでも泊っているのでは?」
 と言われてしまえば、どうしようもない。
 実際には、
「今までに、こんんことは一度もない」
 ということでああったり、
「泊まってくるような親しい相手は主人にはいない」
 と言ったとしても、警察が、
「事件性はない」
 と判断すれば、それだけのことである。
 むしろ、必至で訴えれば訴えるほど、警察とすれば、
「自分たちの決定を不服だというのか?」
 と思うだけなので、それこそ
「警察を敵に回すだけ」
 ということになるだけだ。
 そんな不利になるようなことをするだけ無駄であり、労力、精神的にもそんな無駄をするようなことはしたくない。
 そんなことをすれば、
「本当に捜査をしてもらいたい」
 という時、心情として、
「この親子は以前、警察を愚弄した」
 と思われれば、警察としても、本気で動こうとはしないだろう。
 それこそ、警察官も人間ということで、いくら仕事だとはいえ、感情が先に出てくれば、その動きや頭の回転も鈍ってしまうに違いない。
 そんな時、娘のまどかのところに、探偵と名乗る男が連絡をいれてきた。
 まどかとしても、父が失踪前に、
「私に何かがあれば、この人に頼みなさい」
 ということで、託された名刺があった。
 その名刺には、
「遠藤と書かれ、肩書は探偵」
 と書かれていた。
 それと同じものを持ってきた遠藤探偵が現れて、正直、
「どこまで信用していいのか?」
 とも思ったが、
「警察があてにならない」
 ということもあって、まどかは遠藤探偵に一任しようと思うのだった。
 遠藤探偵は、
「ある店で、筒井先生と出会った」
 といい、そこの名前を、
「バー「メビウス」
 だというのだ。
 その店は、その名にふさわしい店で、いわゆる、
「場末のバーだ」
 ということであった。
 その店では、どのような話が行われたのか、子供のまどかには分からなかったが、まどかとしても、遠藤としても、
「この店が何かのカギを握っている」
 と考えたのだ。
 実際に、まだ高校生のまどかが一人でいくわけにもいかず、
「一任する」
 と覚悟を決めたまどかとすれば、遠藤探偵と一緒に赴くということが、一番だと考え、翌日、駅前で待ち合わせをして、ある程度の時間、つまりは、開店時間に合わせる形で、店に行ってみることにしたのであった。
 ただ、実際に、その場所に行ってみると、その店は忽然と消えていたということであった。
 そのことは、実際には信じられないということであり、まるで煙に巻かれたというのは、まさにこのことではないだろうか?
 ただ、まどかとしては、それを、
「正夢のようなものではないか?」
 と考えたのだ。
 父親が、数学者であるということで、娘も何かの学問に造詣を深めるということは、往々にしてあることではないだろうか?
 まどかが興味を持った学問というのは、
「心理学」
 であった。
 なるほど、父親は、理数系の中での数学、娘は文系とは言い切れないが、理数系ではないということでの学問として、心理学を研究してみたいと思うようになった。
 実際に、文系の中には、大学によってであるが、心理学を筆頭に挙げているところもあるという。
「心理学博士」
 と呼ばれる人も、一つの大学に一人はいるだろう。
 そもそも、ここ半世紀くらいで、精神疾患という人がかなり増えたということは、数字の上だけではなく、リアルなところで感じている人も少なくはないだろう。
 しかも、その精神疾患というのは、
「一つの病気に関連して、いくつもの病気を誘発させている」
 といってもいいかも知れない。
 一つの精神疾患がみつかれば、たいていの場合は、他にもいくつかを併用している。それこそが、
「精神疾患というものの、恐ろしいところだ」
 と言えるのではないだろうか。
 実際に、医者の処方した薬というのは、何種類もあり、それこそ、
「ドラッグケース」
 のようなものを持ち歩き、ちゃんと誰かに管理してもらわなければいけないくらいの、結構な数を飲むことになる。
 そもそも、薬というのは、
「副作用のない薬などない」
 と言われるほど、副作用の宝庫といってもいい。
 それを考えると、
「こんな世の中に誰がした」
 ということもいえるくらいだ。
 実際に、
「精神疾患」
 というものは、
「精神病冠者」
 などと言われ、サナトリウムのようなところで、密かな治療を受けていたのであった。
 どうしてそんなことになるのかというと、昔の精神病というものは、世間では認められるものではなく、どんな精神疾患であっても、
「精神病」
 ということで、世間は一括りにして、いわゆる、
「差別の対象」
 ということになっていた。
 学校では、
「特集学級」
 などと言われて、精神病患者を隔離する形で教育をうけていた。
 学校側の言い分とすれば、
「健常者と一緒にいれば、却って差別を受けたり、誹謗中傷などの苛めの対象になったりする」
 ということで、そんな彼らを守るためというのが、その言い分だったのだ。
 しかし、どんな言い訳をしようが、
「差別」
 ということにはッ変わりはない。
「差別を受けさせないため」
 ということで、差別をしているというのは、それこそ、本末転倒だといってもいいだろう。
 そんな時代には、
「住んでいるところが昔は部落だった」
 というだけで、差別を受けていた時代である。
 その人がいくら優秀であっても、
「部落出身者」
 ということが分かれば、それだけで差別されるというような時代だった。
 しかし、昭和も40年代くらいに入ると、