数学博士の失踪(前編)
しかし、待ち合わせを楽しみにしている時点では、まだ自分の思いがどちらななおかが分からない。
つまり、
「恋愛感情なのかどうかも分からない」
ということだ。
少なくとも、
「恋愛意識というものだけはある」
というくらいに感じているのであった。
自分にとって、
「今は父親が大切」
ということである。
とはいえ、
「父親に対しての感情って、あまり感じたことはなかった」
と、こうなって見ると改めてそう感じるのであった。
「お父さんのことは尊敬しているけど、どうしても、堅物というイメージがぬぐえなかった」
ということであった。
それは、テレビドラマなどで、
「科学者や、数学者などというと、研究だけに没頭していて、人間としての感情が欠如している」
というような雰囲気で描かれているというのが多かったような気がした。
実際に、ドラマのストーリー展開では、彼らはそのようなキャラクターで描かれることで、主役を盛り立てるという、
「脇役に徹する」
という意味では、どこか、本来の性格に誇張した表現というものが必要なのだということになるだろう。
しかも、
「父親とは、絶対に交わることのない平行線というものになるのだ」
ということである。
それは、
「時系列」
というもので、
「時間というものが、誰にでも平等に流れている」
という当たり前のことであった。
というのは。
「父親が父親たるゆえん」
ということで、
「年齢の差は絶対に埋められない」
というこになり、その自分の知らない間に父親の経験した時代を自分が知らないということで、父親に限らず、年長者に対して、大いなる尊敬の念というものがあるのは当たり前のことだと思っている。
それが、どんな人であれ、あまつさえ、犯罪者であったとしても、自分の知らない時代を生きてきたということで、その尊敬の念というものと、実際のその人の表に現れていることとでは別だと言えるのではないだろうか?
そんなことを考えながら、遠藤探偵が現れるのを、漠然と待っていた。
そんな時、まどかが考えたのが、
「鏡の魔力」
というものである。
言い方は大げさであるが、以前から、鏡というものに対して、造詣が深いと自分でも思っていた。
前述の、
「合わせ鏡」
というものもそうである。
その中で考えたのが、
「無限」
という発想と、
「限りなくゼロに近い」
という発想である。
最終的には、父親の研究している数学に関わってくるということであるので、
「最終的な結論としては、父親が思っていることの方が正解に近いのかも知れない」
と思うが、その過程における発想というものは、
「私だって負けていない」
と感じるのであった。
しかも、その過程というものは、
「お父さんとは絶対に別のものだ」
と考えていた。
もちろん、考える人間が違うのだから、根本から違っているはずということで、違うことこそ、
「交わることのない平行線ではないか?」
と考えるのであった。
だから、まどかとしては、
「心理学と数学というのは、まるで、もう一人の自分のようではないか?」
と考えている。
そして、その、
「もう一人の自分というものを見ることができるとすれば、それは、鏡でしかないということで、それを鏡の魔力という言葉で言い表せることができるのではないだろうか?」
と考えるのであった。
前述の、
「合わせ鏡の発想」
というものだけではなく、最近では、まどかが考えていることとして、
「鏡の反転」
というものであった。
これは、ある意味、誰もが気が付きさえすれば、
「おかしなことだ」
と言えるのかも知れない。
しかし、たいていの人は、このことを提示したとしても、
「何がおかしいの?」
と、その現象がおかしいということに気づかないといってもいいだろう。
というのは、それこそ、
「目の前に存在しているにも関わらず、意識することがない」
という、
「河原や路傍にある石ころ」
という発想に似ているのではないだろうか?
目の前にあっても、
「そこにあって当たり前」
というものは、見えているのに、その存在が意識されることはない。
だから、人間も、気配を消すことで、相手に悟られないということを利点として、それこそ昔の忍者などというものが、活躍することになったと言えるのではないだろうか?
それを考えると、
「この発想は、人間の意識の中でも、意識はしているかも知れないが、感情としては表に出ることがないということでの、夢というものと似ているのかも知れない」
と言えるのではないだろうか?
夢というものが、潜在意識のなせるわざということであれば、
「鏡の反転」
であったり、
「路傍の石」
というものは、
「潜在意識のなせるわざだ」
ということになるだろう。
実際に、
「鏡の魔力」
というものがどういうものなのかというのは、さすがに、まだまだ心理学の勉強というものをしたいと考えるようになったはいいが、その前に、大学受験というリアルな問題が控え散るまどかには、なかなか難しいものであった。
しかし、勉強熱心になったということにおいては、まどかとすれば、決して悪いことではなく、むしろ、
「これからの自分にとってはいいことに違いない」
ということが言えるというものだ。
その鏡というものを考える時、
「左右反転はするのに、なぜ、上下が反転しないのだろうか?」
ということであった。
これは、普通に考えれば、
「当たり前のことではないか?」
という話になるだろう。
「そんな当たり前のことを、いちいち問題にするなんて、お前はおかしい」
と言われるに違いない。
しかし、少しでも、鏡というものに興味を盛ったりしていれば、
「それもそうだな」
と感じることだろう。
いや、逆にその人は、
「無意識かも知れないが、鏡というものに恐怖心を抱いているのかも知れない」
ということが言えるのではないだろうか?
「恐怖心を抱くからこそ、人間は、考えるようになった」
というもので、特に、古代人が、何も分からないことに関しては、祈祷などによって、解決するということに似ている。
今であれば、
「病気というのは、医者が治す」
というのが当たり前であるが、昔は、薬というものはあったかも知れないが、それも、
「自然の樹木などから取っただけのもの」
ということで、後は、祈祷師が祈願をするということでの治療しかないと言えるのだ。
だから、
「運命」
というものが生まれ、特に、
「人間というのは、寿命というものがあり、必ず死ぬ運命だ」
ということが分かっている。
しかし、これは理屈からいえば、
「生まれるだけであれば、人間が増え続け、自然の摂理に反してしまったり、限りある地球で増え続けることはありえない」
ということになる。
だから、人間以外の動物というのも、最後は死んでしまうというのが当たり前のことであり、それらをひっくるめたところで、
「自然の摂理」
というのだ。
実際に、
「弱肉強食」
という言葉があるが、それを、
「気の毒だ」
作品名:数学博士の失踪(前編) 作家名:森本晃次