数学博士の失踪(前編)
「私の知っている父は、飲みに行くとしても、いつも一人で行くようなタイプの人間だと思っていました。でも、そんなこともあるんだと意外ですね」
というと、
「やはり、その場所というのも大きな影響があったのかも知れないですね。二人きりで話ができるというところは、先生は好きなんじゃないかな?」
というので、
「じゃあ、遠藤さんはお父さんとは、いつもそのお店で会っていたんですか?」
と聞くと、
「ええ、そうですね。プライベートでは、その店が多かったですね。でも、プライベートではない時も、その店を使うこともありました。先生はその店を気に入っているようで、私もそうなんですよ」
というではないか。
その店に、まどかは興味を持つのだった。
バー「メビウス」
「その店はなんという名前なんですか?」
とまどかが聞くと、
「バー「メビウス」という名前なんですよ」
と教えてくれた。
メビウスというのは、四次元の世界の存在を暗示させる、
「メビウスの輪」
というものに似ているといってもいいかもしれない。
そういう意味で、数学者である父親は興味を持ったのかも知れない。しかし、本来であれば、メビウスの輪というものは、数学者よりも、物理学者の方が似合っているような気がする。
「物理学者が好きそうな名前ですね?」
というと、遠藤は今度はあからさまに楽しそうな顔をして、
「ええ、そうなんですよ。実は先生のお仲間というのは、その物理学者だったんですよ」
という。
その話が、遠藤のどこを刺激したのか分からないが、かなり興奮しているかのようで、みていて、滑稽にさえ感じられたまどかだった。
「そんなに相手が物理学者というのが面白いですか?」
と、まどかの方は相変わらず、冷めた感情しかもっていなかったのだが、遠藤は相変わらずの興奮で、
「ええ、こんなに面白いことはありませんよ。二人が話していた話題は、数学者にも、物理学者にも、同じくらいの郷里のお話で、聞いていて興奮が盛り上がってくるのを感じたほどです」
という。
「そんなに面白い?」
と聞くと、
「ええ、だって、数学と物理学の間の微妙な距離ですよ。しかも、店の名前がメビウス。それこそ、異次元の世界を創造させるだけのものではないですか。それを考えると、私はこれ以上の面白さはないと思いますよ」
というのだった。
「どんな話だったんですか?」
というと、
「いろいろな話をしていましたが、私が興味を持ったものの一つに、限りなくゼロに近いものという発想がありましたね。その発想というのは、元々は、合わせ鏡や、マトリョシカ人形のようなものからだったんです」
という。
マトリョシカ人形というと、確か、
「ロシアの民芸品」
というもので、
「人形の中からまた人形が出てきて、さらに、その中には人形があって」
というものであった。
また、
「合わせ鏡」
というのは、
「ある人の前後、あるいは左右に鏡を置いた場合、その向こうに見えるものは、無限に自分だ」
という発想である。
つまりは、
「どんどん小さくなっていく」
という発想であるが、理論的には、
「無限という発想」
から考えると、
「最後には、絶対にゼロにならないというのが、無限という考え方」
ということになれば、そこに見えてくる発想は、
「限りなくゼロに近いもの」
ということである。
これを数学的に考えると、
「整数をどんどん割り続けると、どんなに小さい数字になろうとも、決してゼロになるということも、ましてやマイナスになるということもない」
というものである。
それが、数学的な考えというものであり、その先にあるものは、
「無限」
という発想である。
この無限という発想は、
「数学者にも、物理学者にも共通の課題」
といってもいいだろう。
まどかは、それくらいの発想は頭の中に持っていて、それでも、
「まだまだ神秘な部分が多い」
ということであった。
その話を遠藤探偵が聞くと、
「ほう、なるほど数学者の娘だけのことはある。私も似たような発想を持っているが、まどかちゃんは、さらに、その先の感情を持っているような気がするな」
ということであった。
まどかは、そんな
「数学的な発想と、物理学的な発想」
というものを、父親から聞いたというわけではない。
だから、
「さすが、数学者の娘」
というのは、話を聞いたというよりも、発想であったり、感性というものが、父親からの遺伝ということになるのであろう。
そのことを、最初から分かっていたのか、途中から興奮気味になったのは、
「まどかが、この話を聞いてどう感じるか?」
ということが、遠藤探偵には想像がついたのかも知れない。
そんなことを思えば、
「まどかという女性は、本当に俺の手におえるのだろうか?」
と考えた遠藤探偵は、
「覚悟を持って会いに来た」
といってもいいだろう。
そんなバー「メビウス」という店に、さすがに高校生の娘を連れていくわけにはいかないので、遠藤探偵が、店に行ってみるということになった。
実際に遠藤探偵は、
「あの店が、失踪に何かかかわりがあるのかも?」
と感じているようだった。
遠藤探偵としては、
「あの店は、どこか幻想的で、行くたびに、この店は本当に存在するのかというような不思議な感覚に陥ることが多い」
と考えていたのだ。
実際に、まわりの客というのも、いるにはいるのだろうが、その存在がまるで架空ではないかと感じられるほどだった。それこそ、幻想的な世界の中の、景色であったり、オブジェのような存在といってもいいだろう。
「そのお店って、木造建築っぽいお店なんですか?」
と、まどかが言った。
それを聞いて、遠藤探偵は、少し驚いたようで、
「どうして、それを知っているんだい?」
と聞いた。
遠藤とすれば、
「父親から、そういう店に行っているという話を聞かされていたのかな?」
と感じたようだが、
「どうしてなのか、お父さんをイメージすると、そういう店に行っているという感情が浮かんでくるんですよ。だから、あくまでも、想像でしかすぎないんですけどね」
という。
最初は、遠藤とすれば、まどかに対して、ある程度のマウントを取ろうとして、自分の感情を表に出さないようにしていたのに、今では、そんな思いは消えていて、逆に、まどかに対して前のめりだった。
というのも、
「きっと、まどかに対して感情が大きくなっている。つまりは、興味津々ということになるのではないか?」
と感じるようになっていた。
ある意味、
「立場が逆転してしまったのではないか?」
ということであるが、それは、
「遠藤探偵が、まどかのことを子供だと思って甘く見ていた」
というのもあるだろう。
ただ、それも、探偵としてのやり方ということで、むげには否定できないといってもいい。しかし、だからといって、それを自分で違うともいえない遠藤探偵も、それなりに、素直なところがあるから、相手とのコミュニケーションができなくなるわけではないということになるだろう。
作品名:数学博士の失踪(前編) 作家名:森本晃次