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必要悪の正体

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 というのが広がっているのは事実だ。
 だから、実際に、
「判断を間違えたりする」
 ということになるのだ。
 しかし、それは、人間にいえることで、それでも、
「判断をする」
 ということができるわけだ。
 これが、ロボットのような人口知能を人間が与えたものだということになれば、果たして、
「無限の可能性」
 というものをキチンと選択できるであろうか。
 まったく最初から判断することができるわけはないので、ロボットの性質として、
「危険というものを感じた時は、自分から動く」
 ということはできないだろうと考えられる。
 そうなると、一歩も動けず、判断がつかないまま、時間がくるまで動けずに、そのまま、
「時間に葬られる」
 という運命をたどることになるというわけだ。
 ロボットに限らず、動物も、
「判断がつかない」
 という時は、一歩も動けなくなってしまう。
 それは、
「動物であろうが、ロボットであろうが、同じことだ」
 といえるだろう。
 そして、それは人間においても同じことなのだ。
 というのも、
「人間の場合だけが、この難問を一つ先に進むことができるというもので、少なくとも、その判断が合っているか、間違っているのか?」
 ということはいざ知らず、動くことができるのであった。
 もちろん、子供であれば、そうはいかないが、大人になるにつれて、どんどん、行動範囲が広がってくるのだ。
 だが、
「考えることができない」
 と言われる動物は、ほとんどの場合において、
「人間よりも確実に、正しい行動をとることができる」
 といえるだろう。
 動物の場合は、何といっても、
「弱肉強食」
 という世界の中にいて、しかも、人間ほどの知能があるわけではないので、考えることはできないとなると、
「その行動の拠点はどこにあるというのか?」
 ということになるだろう。
 その行動を、
「本能だ」
 と解釈すれば、動物が正しい行動がとれるというのも分かるというものだ。
 つまり動物は、その行動を、
「本能」
 というもので賄えているといってもいいだろう。
 つまり、
「過去の経験を教訓として、身体が覚えている」
 ということで、これは、
「知能というものではなく、能力といえるだろう」
 もっとも、知能というのも、人間に与えられた能力の一つということで、
「知という能力のことだ」
 といってもいいだろう。
 人間にも、本能というものは存在している。
 だからこそ、反射神経のようなものがあることで、
「考えるよりも先に行動する」
 ということで、
「反射神経」
 と呼ばれるものがあるのであった。
 だが、人間の場合は、
「考える」
 ということが最優先としてある。
 だからこそ、
「他の動物にはない、知能というものを、生かそうとする」
 だから、何かあった時、
「本能よりも知能」
 が先に立とうとしようとするのではないだろうか?」
 だから、動物のように、俊敏な行動はとれない。
 しかし、知能によって、
「降りかかる危険を最小限に食い止めることができる」
 というわけで、知能によって考えたことで、人間は行動できるくらいに、
「他の動物ほどの危険性を感じることはない」
 といえるだろう。
「もし、人間が、他の動物のような危険な目に遭っていれば、まず、短い期間に、人類というのは滅亡しているに違いない」
 ということができるだろう。
 危険な目に遭わされることで、動物は身体で覚えるわけで、そうでもしないと、
「いつ天敵から食われるか分からない」
 ということになる。
 だが、人間は、人間の天敵と言われるようなものを排除できるだけの知能がある。
 相手の動物も、人間にその知能があることを分かっているから、うかつに人間を襲わない。
 それが、それぞれの自然の摂理を形成しているといってもいいだろう。

                 樹海の死体

 世の中において、
「知能というものが、本能に勝る」
 ということが言えるのだろうか?
 ということである。
 それはきっと、
「人間の見た世界」
 というものと、
「動物から見た世界」
 というものがまったく違っているということからきているのではないかということであろう。
 特に人間には、
「人間というものを、一つの種族」
 と考えているかどうかは甚だ疑問だといえる。
 動物を見る時、人間は、
「犬なら犬。ネコならネコ」
 ということで見分けはつけられるし、同じ犬の仲間でも、
「柴犬と、ポメラニアン」
 などという種別でも見分けることができる。
 しかし、人間のように、個人個人という形で見ることができるということかということで、
「確かにペットであれば、名前をつけて飼いならすということから、自分の犬だとして区別はつけられるだろうが、少なくとも、人間のように、血族ということではない」
 といえるだろう。
 しかも、
「動物に言葉というものがあるのかどうか分からないが、少なくとも人間にそれを理解することはできない」
 ということからも、
「人間には動物を、個別にか理解することはできない」
 ということになるだろう。
 そうなると、
「ペットの飼い主次第で、そのペットの運命が変わる」
 と言われて、
「動物愛護」
 という観点で、いろいろ言われているが、
「それは人間同士であっても同じことで。
「人間は生まれる時と死ぬ時を、選ぶことはできない」
 ということだ。
 死ぬ時は、寿命はもちろん、運命によって、死はさまざまな形で訪れる」
 ということになるだろう。
 しかし、生まれる時も同じことで、
「金持ちの家に生まれたり、貧乏人の家に生まれる」
 などということで運命が変わってしまう。
 ということである、
 それは、江戸時代など顕著で、
「士農工商」
 などという身分制度があったではないか。
 もっといえば、
「戦国時代などは、世の中が戦乱の時代で、いつ殺されるか分からない」
 ということで、
「生まれた時代が悪かった」
 として諦めるしかない人だっていただろう。
「生まれた瞬間、殺される」
 という人もいたくらいで、しかし、これは、病気でも同じことで、
「生まれてくる時に、死産だった」
 ということであれば、
「生まれてから、すぐに死ぬ」
 ということと同じではないだろうか。
 また、次の瞬間に起こることを、
「本能」
 であったり、
「知能」
 などというもので予知し、次の瞬間の可能性に備えることができるのが、
「動物」
 というもので、植物のように、
「動くことができず、本能があったとしても、運命には逆らえない」
 ということになるものはどうすればいいのだろう?
 逆にいえば、
「動くことのできないものには、動けない」
 という何かの理由があるのではないか?
 と考えることもできるのではないか?
「自然の摂理として、植物は、草食動物に食われ、今度は、そこから、栄養を取られたその後は、今度は、肥料として、
「植物の餌」
 というものになるのである。
 それを考えると、
「植物のように、本能も知能もなくて、さらんいは動けない」
作品名:必要悪の正体 作家名:森本晃次