必要悪の正体
要するに、
「いまさら、他のところで心機一転」
というほどの大それたことは考えられない。
「うまく行っているのだから、今のままでいい」
と思えさえずれば、何の問題もないのだが、どんどん募っていく不安が払拭できないことで、
「時々、ボーっとする時間が増えてきて」
自分でも、
「情緒不安定」
と思う時間が増えてきたのであった。
それまでは考えたことのない、
「夢遊病」
のようなものを起こしているのではないか?
と思えるほどで。
「そもそも夢遊病って何なんだ?」
と考えるようになった。
子供の頃は、
「あまり夢を見ない」
と思っていた。
夢を見たとしても、
「覚えていない」
と後から思うのが、小学生のまだ小さかった頃だった。
しかし、高学年くらいになってくると、
「覚えていない」
というよりも、
「忘れていく」
と感じるようになってきた。
「覚えていない」
ということと、
「忘れてしまう」
ということは、
「似て非なるもの」
といってもいいだろう。
どちらも、
「夢を見た」
ということには変わりはないのだが、
「覚えていない」
ということは、
「実際に見た夢を忘れたわけではなく、覚えていないのだ」
それは、
「忘れてしまった」
ということも言えるわけだが、それ以外に覚えていないという何かがあり、つまりは、
「忘れてしまう」
ということ以外にも、他の何かが存在しているということであろう。
「その分、考える余地がある」
ということになる。
しかし、
「忘れてしまった」
ということは、結局最後の結論は、
「一つしかない」
ということで、
「見た夢の結論として、忘れてしまったわけなので、思い出すことはできないということだ」
もし、見た夢を思い出すのだとすれば、それは覚えていないという段階から、忘れてしまうという段階を踏むまでであれば、できるということになるのだ。
つまり、
「覚えていない」
というプロセスがあり、結果として、最後に
「忘れてしまう」
ということになるのだ。
だから、
「小さい頃に見た夢を覚えていない」
と思うのは、思い出すだけの余地があるということであり、高学年になってから、
「忘れてしまった」
と思うのは、
「思い出すことのできる余地がない」
ということで、逆に言えば、
「大人になるにつれて、どんどん自分が分かってくるということである」
という当たり前のことが分かってきたということなのであろう。
それを考えると、
「これがもっと年を取って、老人になれば、どうなんだろう?」
「覚えていない」
ということなのか?
それとも、
「忘れてしまった」
ということになるのか?
想像が許すのであれば、
「忘れてしまった」
といえるのではないだろうか?
というのは、
「思い出せない」
と、今まで思っていたことは、そのほとんどを思い出すことができるということを分かっているのであり、逆に、
「忘れてしまった」
と感じることが、どういうものなのかというのを、重ねてきた年齢が分からせてくれるということになるのだろう。
だから、
「年は取りたくない」
という人もいれば、
「年は重ねていくと考えれば、嫌だとは思わない」
という人に分かれることだろう。
「年を取りたくない」
と素直に感じる人は、
「忘れてしまった」
ということを真剣に考える人間であり、逆に、
「年を重ねてきた」
と思う人は、
「別に過去のことを思い出す必要もない」
と思うことから、
「覚えていない」
ということを、こちらは素直に受け止めるということになるのだろう。
それを考えると、
「今まで重ねてきた年齢とこれから重ねるであろう年齢とでは、明らかに違う」
と思うのだ。
「後ろを振り返った時に見る景色」
と、
「未来に広がっているであろう景色」
とでは、
「歩く感覚」
というものによって違ってくる。
歩いてくると、確実に、足は疲れを感じるものである。
そして、その疲れから、経験上ということで、
「歩いてきた疲れが距離を感じさせ、そこには、錯覚はない」
ということであるが、
「後ろを振り向く」
ということは、明らかに、
「いつもと違うことをしている」
ということで、無理な体制になっているということで、血管の収縮から、距離感がマヒしてきて、
「小さく見える」
つまりは、
「遠くに見える」
という錯覚を生むのだ。
それが、上下で見た時に違ってみえるという、
「天橋立のまたのぞき」
というものであったり、
「逆さ絵の錯覚」
といってもいい、
「サッチャー錯視」
と呼ばれるものに由来するといってもいいのではないだろうか?
それを考えると、
「錯覚を見せるに十分な光景」
ということでは、
「この、森に囲まれた湖畔のペンション」
というのは、
「実にその錯覚にふさわしい場所だ」
といえるのではないだろうか?
ここは、昔から、
「樹海になる予定だった場所だ」
と言われている。
樹海というところは、
「一度入りこむと逃れることはできない」
と言われているが、それは、
「コンパスも利かない」
ということから、入りこんだら、
「どこにいっているのかも分からない」
ということから、
「死体も見つからない」
と言われている。
だとすれば、
「よく、死亡ということが分かるというものだ」
ということだが、それは不思議な感覚だった。
「時系列」
ということで考えた時、
「現在からみた、過去と未来」
ということで、考えてみれば不思議なものだ。
というのも、
「時系列というのは、前にばかり、規則的に時を刻んでいる」
というものだ。
まるで、
「モグラが土をかいている」
かのように、掘り起こした部分がスルリと後ろに抜けるように、立った今、前にあったものが、頭にかぶさって、あっという間に過去という後ろに行ってしまう。
だから、本来であれば、
「最初は、すべてが未来だった」
ということであれば、最初の瞬間に、未来の一部が現在となり、その次の瞬間には、それが過去になる。
それを、一つ一つ繰り返していくことで、
「未来から、現在を通って、過去に向かう」
ということになるのだ。
この中で一番大切なものは、
「現在」
というもののはずだ。
しかし、次の瞬間には、その現在が過去になってしまうわけで、二度と現在に戻るわけはない。
もっといえば、未来が現在になってしまうと、未来にも戻ることができないわけだ。
そうやって、現在は、どんどん入れ替わってくるわけなので、その目の前にある現在というものが、
「本当に一つだけなのだろうか?」
という考え方があるのだ。
「それが、
「パラレル」
という考え方で、
「目の前にあることが本当に正しいのか?」
ということであり、
「無限に広がっている可能性」
というものを、誰が分かるということか?
という考えから、
「ロボット工学」
における、
「フレーム問題」
というのが問題になってくるということであった。
確かに、目の前には、
「無限の可能性」