必要悪の正体
ということは分かっていた。
それだけ都心部のように、
「つながった事業」
というわけではなく。
「そもそも、同じ系列のところだということが分かるはずがない」
というほど、
「離れた経営方針」
であった。
これは、あとから分かったことだったが、そもそも、このペンションは、
「息子の英才教育のためだけに買い入れたところだ」
ということだったのだ。
そういう意味では、
「息子が立派に成長すれば、売り払ってもいい」
といえるところだが、この息子は、この場所に執着があったのだ。
「あの場所をなくさないでくれ」
ということを社長に頼み込んだということであったが、意外なことに、
「ああ、大丈夫だ」
ということ言ってのけたという。
「私が本部に来てこの会社を継げば、あのペンションはどうなるんですか?」
と聞くと、
「心配することはない。ちゃんと考えてあるさ」
ということをいうのだった。
「どうするんだろう?」
と長男が思っていれば、
「番頭の息子が継ぐ」
ということで、ホッと胸をなでおろしたのだ。
そもそも、社長の息子には、二つ下の次男がいた。その時は、他の会社で、同じように、「丁稚奉公」
のようなことをしていた。
それを知っていたので、
「あいつが、俺の後釜ではないか?」
と感じていたのだ。
ただ、長男としての勘であったが、
「あいつに、ペンションのオーナーが務まるんだろうか?」
という思いがあった。
というのは、
「あいつは、次男ということもあり、自分が長になって、経営するということはできないのではないか?」
と思っていたのだ。
それよりも、
「弟こそ、参謀の地位が一番で、いずれは、自分の右腕になってほしい」
と思っていたのだった。
実際に、弟も性格的に、
「自分が中心になるより、ナンバーツーとして、トップを支えることに長けている」
と社長も思っていたのだろう。
だから、長男の希望通り、
「本社では、長男が次期社長、次男が次期専務」
と言われているようだった。
すると、
「ペンションはどうすればいいんだ?」
と思っていたところに、
「番頭の息子」
というのが、クローズアップされているいうことを聴いて、
「ひとまず安心」
ということだったのだ。
実際に、ペンション経営は、番頭の息子が、
「十分すぎるくらいにやっている」
といってもよかった。
「社長の息子と、番頭の息子とが入れ替わっていたとしても、遜色ない」
とまで言われたほどだったのだ。
この息子が、ペンションの経営を始めた時、社長への話として、
「あのペンションを、必要以上に大きくしようとは思っていないんですよ」
ということだったのだ。
青年実業家と言われた、番頭の息子だったが、彼からすれば、
「まずは、地盤をしっかりして、常連の客を固めることが大切」
と考えていた。
だから、必要以上な宣伝活動をするわけではなく、
「一度何かを見てきてくれた人に満足してもらい、その人達の口伝というものが、新規の客を生む」
ということで、実際に、広告などを新聞た、雑誌などの宣伝を利用しようとはしなかった。
ただ、
「最寄りの駅の看板だけは掛けてもらう」
というようにして、そこには、
「湖畔のペンション」
ということで、写真付きの宣伝を載せていたのだ。
実際には、この駅は終着駅になっていて、その奥の半島になったところに、その頃には、
「臨海工業地帯」
ということで、工場が建てられていたのだった。
その工業地帯のために訪れる人が結構いて、実は、この駅の看板というものが、結構な、
「口伝による宣伝効果」
というのを生んだことで、
「こんな街にペンションがあるのか?」
ということから、
「出張の人が宿泊する人も増えてきたようで、本来の行楽のためのペンション」
というイメージを払しょくするという、
「全国的に珍しい宿」
ということであった。
ピストンバスも運転所を雇うことで利用できるようになっていた。
しかも、その工場というのは複数の会社が、まるで、
「工場団地」
ということで乱立していることもあって、
「社長の会社の工場」
というものもあり、ここを利用する人が出てきたことで、他の会社の人も利用することが増えてきたのだった。
このアイデアは、
「番頭の息子」
が考えたことであり、そのおかげで、経営は、しっかりと黒字となっていた。
ただ、これも、
「拡大しない」
という、初代オーナーである長男の進言が利いたことで、それ以降の、
「不況と光景を繰り返した」
という時代、つまりは、
「好景気に沸いた時」
であったり、
「オイルショック」
や、
「好景気の反動」
などの危機からも、大きな損害を出すこともなく、うまくいっていたのである。
しかし、問題は、
「バブル経済」
であった。
まわりは、
「事業を拡大すればするほど儲かる」
ということだったので、
「わが社も、それに乗り遅れないように」
ということで、本部も警戒はしていたのだが、それでも、損害が防げるほど、甘い波ではなかった。
何しろ、
「全国民が信じて疑わなかった」
というバブル景気である。
しかも、
「銀行は絶対に潰れない」
などという、
「神話」
と呼ばれるものを信じていた時代。
「その銀行ですら、過剰融資を率先して行っていたことで、真っ先に経営破綻を起こし、倒産した」
ということになれば、
「銀行あっての、社会経済」
ということなのに、それが、どうにもならないところに来ると、いくら、
「注意をしていた」
としても、
「自分だけが被害を最小限に食い止めたとした」
といっても、まわりが、被害というものに、まるで、
「津波のごとく」
飲み込まれるということになると、
「一企業程度では、どうなるものでもない」
といえるだろう。
それを考えると、
「ペンション経営も、風前の灯」
ということになるだろう。
ただ、一つだけ、
「功を奏した」
というのは、
「初代オーナー」
の言っていた。
「決して事業を拡大させない」
ということから、被害がないわけではなかったが、
「最低限の被害ですんだ」
ということになるのだ。
そして、
「何がよかったのか」
というと、
その被害の少なさから、時間が徐々にだが、流れていく中で、目に見えて、赤字が減って行ったのだ。
それが、
「今後の会社の持ち直し」
ということの手本ということになったからだろう。
どこの会社も、不況にあえいでいて、
「他の会社が、どのようにしているか?」
ということを探っても、その復活の兆しとなる答えが見つかるわけではなかった。
だから、どこの会社も判で押したように、
「リストラ」
を行ったり、
「吸収合併」
というものを繰り返すことで、企業を何とか延命しようとしたりと考えられたことであろう。
しかし、実際には、
「多大な犠牲を伴う」
ということで、
「一時的には、何とかなるかも知れないが、先のことは分からない」
というものであった、
「目先のことしか考えられるわけはない」