必要悪の正体
ただ、この犯人が、どのような動機で、さらに、どのような性格なのかということを考えると、
「犠牲者は一人ではない」
ということになるかも知れない。
そうなると、確かに放ってはおけないのかも知れないが、そもそもは、それを放っておいたのは、
「捜査すべきであった警察」
というものが、
「きちんと機能していなかったからだ」
ということになるだろう。
警察というものが、いかに、
「形式的な集団か?」
ということは、テレビドラマなどで分かっていたことではあるが、
「動かなければいけない」
という時には、何もしなかったくせに、
「すでに、遺族の方では完結している」
ということを、
「いまさらのように、ほじくり返すことをする」
というのは、それこそ、
「警察の自己満足ではないか?」
といえるのではないだろうか?
そんなことを考えてみると、
「死んでいった」
いや、
「殺されることになった人間」
というのが、
「遺族に対して、遺恨を残してしまうことになる」
というのは、実に歯がゆいことではないだろうか。
「死んでまで迷惑をかける」
と思われたとすれば、死んでいった人は、
「このまま、静かに眠らせてほしかった」
という方が、
「殺されたことが無念だ」
ということよりも強いかも知れない。
実際に死んでいった人は、この世に戻ってくるわけでもないし、考えていることを話せるわけではないので、それこそ、
「勝手な憶測にしかすぎない」
というわけで、そうなると大切なことは、
「この世で生きている人に、死んでいった人のことで、余計な迷惑が掛からないようにすることだ」
と考えれば、やはり、
「いまさら死体が発見されても」
ということになるだろう。
そうなると、もし、死体の身元が発見され、身元に合わせて、捜索が始まると、
「遺族の対応が、塩対応になる」
ということは、分かり切ったことになるに違いない。
それを警察はどこまで認識しているかということだ。
もし、認識していないとすれば、警察が捜査をする中で、遺族が、
「いまさらになって」
という、遺族としては当たり前の態度を取ったとしても、警察の捜査員とすれば、
「あなた方の近しい人が殺されたんですよ。悔しくはないんですか?」
といって、
「警察の捜査の正当性を訴えた」
としても、それが、被害者側の心を打つわけはないだろう。
もし、遺族が警察官から、このようなセリフを言われたとすれば、
「ダメだ、こりゃあ」
とばかりに、一気に、脱力感に包まれるだろう。
つまりは、
「これは、何を言っても同じだ」
ということで、
「警察に対して、すでに奈落の底にあり、それ以上下がらないと思っていたところから、さらに、その下にある世界に叩き落された気分になることだろう」
本来なら、怒り心頭というところなのだろうが、そんな気分にもならない。
以前であれば、時効というものがあり、
「殺人の時効は15年」
ということであった。
だから、
「どんなに苦しんだとしても、最高15年」
ということだっただろうが、今はそんなものはなくなったことで、
「永遠に、事件が未解決であれば、捜査が始まる可能性はゼロではない」
ということで、
「苦しみもやまない」
ということになる。
それこそ、
「限りなくゼロに近い」
といってもいいものだろう。
それだけに、精神的には、
「心が休まる時はない」
といってもいいだろう。
それを考えると、
「本当に時効の撤廃」
というのは、正しいことなのだろうか?
確かに、
「犯人検挙」
という意味でいけば、
「死ぬまで逃げなければいけない」
ということで、
「検挙率が上がる」
という可能性はあるだろう。
しかし、そもそも、
「15年」
というもの、何の根拠もなく決まった時期ではないだろう。
それを考えると、
「15年も経ってから、いくら捜査が続くとはいえ、検挙率が上がるとは、到底思えない」
といってもいい。
そうなると、
「時効の撤廃ということでのメリットがある」
ということで考えられることとすれば、
「犯罪の抑止」
ということであろう。
「以前は時効というものがあったが、時効が撤廃されたことで、死ぬまで逃げなければいけない」
ということだ。
そもそも、
「15年逃げ切る」
ということも、想像以上に大変なことだ。
人生のかなりの部分の、
「逃亡」
ということで過ごすことになる。
それに耐えられるだけの神経があるのか?
ということであるが、逆にいえば。
「15年耐えられるのであれば、一生耐えられる」
という考え方もできるかも知れないが、それはさすがに、無理があるということで、実用的なかんがえではないだろう。
特に、
「法律というものは、あくまでも、事実に対しての刑罰」
ということから決められているものであり、
「事件関係者のそれぞれの立場であったり、心境を考えてのことではない」
ということだ。
それは当たり前といえば当たり前のことであり、
「一人一人、立場も違えば、考え方も違う。ましてや、事件の一つ一つが違うのだから、それを考えて、法律を作ることは不可能だ」
ということになるだろう。
そう、法律というのは、
「公然の秩序、善良な風俗」
という、いわゆる、
「公序良俗」
というもので決まっているということだ。
だから、事件その場その場で、
「なるべく、臨機応変な捜査」
というものが必要なのかも知れないが、
「そんな甘いことを言っていては、捜査は進まない」
ということで、時として、
「非情になるというのも、仕方がないことである」
ということにんあるであろう。
それを考えると、
「遺族」
あるいは、
「事件関係者」
の心情や立場というものは、
「時として無視される」
ということがあっても仕方がない。
今度の遺族が、どう考えているか分からないが、
「もしこのまま捜査を続け、遺族と正対しなければいけなくなった」
という場合、
「捜査員として、ちゃんと相手の心情を思い図った捜査ができるだろうか?」
ということを考えている捜査員がいた。
もちろん、
「大なり小なり、その覚悟を持っている」
というのは、ある程度は、
「皆そうだ」
と思っているかも知れない。
警察官として、今までの経験から、気づくというものであるが、それを、直面して感じている人というのは、今回の捜査員の中で一番強いということで、
「樋口刑事」
であっただろう。
樋口刑事は、そもそも、
「捜査において、将棋でいえば、何手も先を読んで、迅速な行動がとれる」
ということに長けた人だった。
さらに、捜査員の中でも、関係者に対して、
「やさしさ」
というものを持っていた。
ただ、警察官として、その優しさが、
「時として、厳しい処断をしなければいけないことが、往々にしてあるものだ」
と考えていた。
だから、
「被害者の家族」
あるいは、
「加害者の家族」
ということで、それぞれを思い図ることはあっても、
「それぞれの人間性」