限りなく完全に近い都合のいい犯罪
「人の命というものを、何と心得ているか?」
といえるだろう。
そういう連中が、口では、正当性を訴えながら、やっていることは、
「どうせ皆やっていること」
あるいは、
「ちょっとくらいなら分からない」
という考えになり、本来であれば、
「事故というのは、そういうちょっとした油断で起こるものだ」
ということを分かっていないといってもいいだろう。
だが、飲酒運転の撲滅という観点で考えると、
「果たして、この罰則の強化であったり、法律の改正というものが、本当にいいことなのだろうか?」
といえるのか?
というのは、ちょっとだけならいいと思って、近くのコンビニに車で買い物に出かけたとして、それが深夜だったりして、車の通りも人通りもいないところで、出会い頭に出てきた人を轢いてしまうことだってあるだろう。
もっとも、人通りが少ないのだから、
「人や車が飛び出してくるわけはない」
という単純な考えから、しかも、酒を飲んでいるという判断力の中で、反射神経も弱っているだろうし、そんな状況で、暗闇から人が飛び出してくれば、よけれるわけはないということになるだろう。
つまり、
「起こるべくして起こった交通事故」
というものを、加害者は、
「俺は悪くないんだ」
という観点で考えてしまう。
「相手が勝手に飛び出してきた」
つまりは、
「車は急に止まれないのに相手が飛び出してきた」
と考えるだろう。
冷静な判断力があり、
「自分のことだけを考える」
という人間でなければ、
「車は急に止まれないということなので、気を付けなければいけないのは、車の方だ」
と考えるであろう。
それを考えられないのは、
「自分が人を轢いてしまった」
ということで、被害者のことを考えず、自分のことだけを考えるので、自分の都合を最優先してしまうのだ。
そうでなければ、まずは、生き死にを確認したうえで、生きていれば、救急車と警察に連絡。死んでいれば警察に連絡するということは、常識として分かっているはずのことになるというものだ。
だから、その判断がつかないことで、まずは、そこが一番悪いわけである。
もっとも、その判断がつくくらいであれば、最初から、
「飲酒運転などしない」
ということになる。
加害者とすれば、
「交通事故は、いつ起こるか分からない。今回はたまたま酒を飲んでいただけだ」
と考えるだろう。
そうなると、
「ひき逃げに走る」
というのは、衝動的に思いつくことだろう。
もちろん、
「防犯カメラや、ドライブレコーダーの存在」
というものを忘れているわけではないだろう。
しかし、冷静な判断ができないということで、
「ひき逃げと、発覚する恐れというものを天秤に架けた時、出てくる答えは、最初から決まっていた」
といってもいい。
つまり、
「天秤に架けるというのは、最初から、まるでただの作法のように、すべきことだというだけのことで、判断材料とは関係ないところでの、形式的なことだ」
ということになるのだろう。
「まるで、警察組織のようではないか?」
と思う人も少なくない。
そう考えると、
「犯人になった人の精神レベルというのは、警察組織の精神レベルと変わりはないのかも知れないな」
ともいえる。
そう思えば。
「どりゃあ、犯罪が減るわけはない」
ということで、検挙されているのは、
「平均的に犯罪レベルが低い連中だ」
といっても過言ではないだろう。
優秀な頭を持っていて、自分たちを決して過信しないような犯罪者であれば、
「警察を欺く」
ということはできないこともないだろう。
ただ、交通事故というのは、そのほとんどが、
「出会いがしら」
などという、
「突発的な事故」
ということで、基本的に精神状態が錯乱しているであろう。
逆に、交通事故を起こして、普段同様な精神状態で、冷静に対応できる人がいれば、
「よほどの強靭な精神の持ち主か?」
ということであるか、あるいは、
「普段から、犯罪的な意識を持っている」
といってもいいような輩ではないだろうか?
それを考えると、
「結局、警察組織と犯罪者は、いたちごっこになるんだろうな」
ということであった。
だが、もし、
「交通事故というものを、計画的に行った」
という犯人がいたとすれば、その時、警察に太刀打ちができるというのだろうか?
交通事故といっても、実際には、
「殺人だった」
ということだってあるだろう。
「殺人事件を計画した犯人が、殺害方法として選んだことに、交通事故というものであった」
というのは、普通にあってしかるべきではないだろうか?
殺害方法としては、いろいろ考えられる。
「毒殺」
「刺殺」
「絞殺」
などがあり、それによって。犯行現場が変わってきた李するのも、犯人側の、
「犯罪計画」
というものがあるからである。
そもそも、犯罪に関しては。完全に、最初の主導権は、犯人側にあるのだ。
何といっても、犯人が犯罪を計画しているということを、どこかかから掴まない限り、警察がその犯罪自体を知るのは、
「犯行が行われてから」
ということになる。
だから、犯罪計画のあるものに関しては、
「犯罪を未然に防ぐ」
ということは不可能なのだ。
警察組織に対して。
「犯罪を未然に防ぐ」
というのは、あくまでも、抑止力ということであり、
「犯罪を犯せば、どうなるか?」
ということを犯人に思わせなければいけない。
それであれば、警察組織のいうように、
「検挙率というものを挙げるしかない」
というのは当たり前のことである。
「検挙率を上げれば。この県で犯罪を起こせば捕まる可能性は高い」
ということで、犯罪の抑止にはなるだろう。
しかもそれが、
「市民の強力が行き届いている」
ということになれば、
「犯行を行う前に露呈してしまう」
という危険性もあるということで、警察組織の考え方としては間違ってはいないのかも知れない。
しかし、そのために、目の前で行われようとしている犯罪を見逃してしまいかねないともいえる。
「大きな犯罪を相手にしている時、暴行などの軽い犯罪を検挙したことで、大きな魚を逃がした」
などということになれば、本末転倒だと考えるのだ。
しかし、第一線の刑事であれば、
「市民が暴行を受けているのに、それを黙って見過ごすことはできない」
と思うだろう。
どっちが正しいということが言えるわけではないが、人情としては、
「目の前の犯罪を見逃すというのは、ありえない」
というのが普通に考えられることだ。
それだけ、一般の警察官と、エリートと呼ばれるキャリア組との間にある確執が、警察組織という大きな壁に、さらに結界を作っていることになるのではないだろうか?
「交通事故」
というものを、軽視するわけではないが、
「事故」
ということで片付けてしまうと、
「本来の犯罪を見逃してしまう」
ということになるのではないだろうか?
そんな交通事故が、
「最近増えているような気がするな」
と思ったのは、K警察署交通課の河合刑事だった・
作品名:限りなく完全に近い都合のいい犯罪 作家名:森本晃次