限りなく完全に近い都合のいい犯罪
「撲滅を目指しているのに、検挙率が高いことを自慢できるわけなどないではないか」
ということになるだろう。
つまりは、一つの犯罪をとっても、その状況を輪切りにして考えた場合、その性質から、一概に言えないことも多いわけで、そう考えると、
「そもそも、警察の威厳」
というものは、どこにあるというのだろうか?
そもそも、時代というものが、
「威厳というものを求めているのか?」
ということである。
「威厳」
という言葉を考えた時、パッと思いつくものとして、以前であれば、特に昭和の時代などになれば、
「父親の威厳」
というものがあったではないか。
つまりは、
「家長制度」
というものがあり、家庭では、父親が一番偉いと言われていた時代があったではないか。
その時代は、
「夕飯は、父親が帰ってきてからでないと食べてはいけない」
であったり、
「メニューは父親だけ豪華」
であったり、などということが普通にあったのだ。
もちろん、
「父親が働いて金を稼いでくる」
という実質的な理由もあっただろうが、昔からの。
「父親が家長として君臨する」
というものが当たり前だった時代には、それなりに、
「父親には、威厳というものがあり、威張るだけの理由たらしめる力があった」
と言えた。
しかし、時代が進むうちに、父親の威厳というものは、まったくなくなってしまい、
「家長制度の崩壊」
といってもよくなったのであろう。
そもそも、敗戦後、日本は民主主義になったのだから、家長制度も崩壊してもよかったはずなのだが、実際には、まるで惰性であったかのように続いていた。
しかし、その時代が
「バブルの崩壊」
というものにより、共稼ぎなる状態が増えることで、
「父親だけの威厳」
というわけにはいかない時代になってきたのだった。
しかも、
「三億円事件」
というものから端を発して、
「給料の銀行振り込み」
というものによって、
「金による威厳」
という最後の手段がなくなったことで、
「父親の威厳」
というものも、崩壊したといってもいいだろう。
そんな状況において、
「父親の威厳」
というものがなくなり、時代は、
「民主主義」
と言われるものに進んできていることにより、
「自由を守るために、巻き起こる制限」
というものも出てきた。
それが、
「プライバシー保護」
「男女同権」
などがそれにあたるということであり、逆に、
「科学の進歩」
であったり、
「人間の性格面での世の中の変化に対応できない」
ということでの社会問題もたくさん出てくるのであった。
特に、詐欺事件などがその例で、
「サイバー詐欺」
などと言われる、
「コンピュータウイルス」
などによる詐欺であったり、
「オレオレ詐欺」
などというものによる、詐欺の多様化が起こってくることで、社会問題も多様化してくるということになったのだ。
そういう意味で、
「警察の犯罪捜査も、警察幹部がいうように、威厳のあるものでなければ、市民は警察に協力をしない」
ということになるだろう。
「頼りない警察に協力しても」
ということになるわけで、さらにもっといえば、
「下手に警察に協力し、犯人から狙われるようなことになったとして、じゃあ、警察が命を保障してくれるか?」
というと、信じられるものではない。
もっといえば、
「威厳というものがあったとしても、その威厳だけで、果たして警察を信用できるというものか?」
ということである。
確かに、命を守ろうとはしてくれるであろうが、それはあくまでも仕事ということであり、
「警察の威厳というものを損なってまで、市民の命を守ろうとするか?」
と考えれば、疑問に感じてしまうだろう。
結局。自分たちの立場と、市民の命を天秤に架けて、それで重たい方を優先するということになるのだ。
本来であれば、
「市民の安全と財産を守る」
というのが、警察の存在意義ではないのか?
それを考えると、
「人の命や財産と、何を天秤に架けるというのだろうか?」
ということであり、
「天秤に架けた時点で、終わりだということに気づかない」
というのが、警察というものなのだろう。
それを考えると、
「思考回路は、犯人と変わらないんだ」
とおもえ、その時点で、
「威厳などという言葉は、まったくの架空である」
といってもいいだろう。
ただ、これはあくまでも、組織ということで考えた場合であるが、警察官、個人個人の考えはこの限りにあらずだということである。
その個人個人の考え方が、
「警察幹部の考え方ではないことを祈るばかりでしかない」
というのが、現状なのだろう。
ひき逃げ
「最近は減ってきている」
というひき逃げであるが、F県では、相変わらずの数である。
何といっても、F県というところは、約十年くらい前に起こった、
「ひき逃げ事件」
が、全国的に大きな社会問題を引き起こし、法律まで変えたり、罰則が強化されたりしたのではなかったか。
それは、前章で述べたような、
「飲酒によるひき逃げ殺人事件」
ということが発生したからであった。
世論も、マスゴミも、
「大きな問題」
ということで取り上げ、その問題が、全国に波及し、それまでも言われてはいて、
「撲滅運動」
というものを定期的に行っていたのに、このような問題が起こったことでの社会問題であった。
だから、県警察としても、
「自分の県から巻き起こった事件」
ということで、世間が騒いでいる間は、徹底的に撲滅運動を繰り広げていたが、それも、結局は、
「時間とともに風化してくる」
ということを絵に描いてしまったのであった。
「警察というものが、どれほどいい加減か?」
ということ、そして、そもそも、問題は、
「飲酒運転をする運転手だ」
ということで、まったく意識がないといってもいいだろう。
実際に、問題になったF県で、警察の取り締まりが強化されたことで一定数は減少したかも知れないが、
「世間が涙する」
という、同情を誘う事件だったにも関わらず、撲滅まで至るわけもなく、普通に、飲酒運転が蔓延っていたのだ。
警察も、
「だからと言って、口では、警察の威信というくせに、年中取り締まりをするわけでもなく、最初から、物理的に不可能と言わんばかりで、それこそ、警察の威信というのも、何か他のものと、天秤に架けられている」
といってもいいのかも知れない。
それが警察組織というもので、
特に、
「法律が改正され、罰則がきつくなった」
という時点で、警察としては、
「ここまでしているのだから、いいだろう」
とでも思ったのか、事件が起こる前のレベルにまで、撲滅運動を引き下げたのだ。
そうなると、結局、発生数も、以前と変わらない。
いや、これは増えてきたわけではなく、
「増えも減りもしない」
というだけのことで、
「じゃあ、これまで何をやってきたのか?」
ということであれば、警察も、やりきれないといってもいいだろう。
それだけ市民の意識レベルが低いということであり。
作品名:限りなく完全に近い都合のいい犯罪 作家名:森本晃次