限りなく完全に近い都合のいい犯罪
「殺人事件」
というものを考えたうえで、小説の組み立て方ということを考えた時、
「殺害方法」
その時の状況からの考え方などというものを頭の中で組み立てていこうというものだった。
河合刑事が好きだった推理小説は、実際には、半世紀以上前に流行っていた、
「探偵小説」
なるものであった。
トリックなども、まだ科学捜査が今のように、犯人を確定できるだけのものではなかっただけに、たくさんの種類があったといえる。
今では、
「不可能に近い」
とまで言われそうな、
「顔のない死体のトリック」
つまりは、
「死体損壊トリック」
というものであるが、それは、
「特徴のある部分を傷つけることで、被害者を特定できないようにする」
というものであった。
つまり、顔がなかったり、手首がなかったりする犯行であるが、今の時代なら、
「DNA鑑定」
というものから、
「ほぼ完ぺきに、被害者を特定することができる」
ということになる。
もっとも、
「被害者が誰なのか?」
ということはある程度予測し、
「その人かどうか?」
ということであれば、ほぼ間違いなく特定できるというものだ。
つまりは、
「被害者が状況証拠などから特定できれば、今であれば、DNA検査によって、実際にも特定できる」
ということになるのだ。
昔は、
「状況証拠だけでは、犯人を特定することができない」
ということで、その公式として、
「犯人と被害者が入れ替わる」
などという、
「死体損壊における派生型」
ということで、
「被害者が特定されなければ、犯人を特定することもできない」
ということで、迷宮入りになる可能性が高かったのだ。
さらに、今の時代では、なかなか難しい犯罪というと、
「アリバイトリック」
などではないだろうか?
今の時代は、いたるところに防犯カメラがあり、ドライブレコーダーというものがついている。
そういう意味では、
「ひき逃げ」
というのも、その一つなのだろうが、それが前述のようなことで、なくならないのは、
「飲酒運転との絡み」
があるからだろう。
しかし、これだけ社会問題になって、世間で言われてきたことなのに、
「飲酒運転」
というものがなくならないというのは、果たしてどういうことなのだろうか?
それを考えると、
「信じられない世の中になった」
といってもいいだろう。
そんな殺人のトリックであったり、状況設定というものの中に、河合刑事は、一つ、気になっている状況設定があった。それは、
「交換殺人」
というものであった。
これは、
「成功すれば、完全犯罪となるが、まず成功することはない」
といわれている。
それは、
「状況設定としては、主犯に完璧なアリバイがあり、実行犯には、その人を殺す動機がないということで、捜査線上に上がることはない」
ということから、成功すれば、確かに完全犯罪たりえるといってもいいだろう。
しかし、これは、心理的に無理なのだ。
最初に、殺してもらった犯人は、今度は自分の番なのだが、実際に危機は去ってしまったことで、自分が今度は危険を犯してまで、最初の実行犯に義理立てする必要はないと考えると、そこで、完全犯罪は崩れてしまうのだ。
しかも、お互いが知り合いだということを知られれば、すべてが終わりということも分かっているので、精神的に追い詰められた時、どうなるかということである。
昔であれば、時効の15年間我慢すればよかったが、今では、時効がなくなった。死ぬまで隠れていなければいけないということは、
「精神的にありえない」
といってもいいだろう。
だが、今回の事件で、河合刑事の頭の中から、
「交換殺人」
という発想がなぜか抜けなかったのだ。
それこそ、
「偶然なのか?」
あるいは、
「必然なのか?」
と考えさせられるのであった。
大団円
今回の事件で、一つ引っかかっていた、
「目撃者である塩崎と、実際にひき逃げされた久保田信二との間に接点はない」
ということであったことから、目撃者が殺されたことで、ふと考えたのが、交換殺人という発想だった。
「目撃者である塩崎をひき逃げした人物に対して出てきた目撃者がいたのだが、その人物と、最初の被害者である久保田信二の関係について、調べてみる気になったのはなぜだろうか?」
やはり、河合刑事の中に、
「交換殺人」
というものが引っかかっていたからではないだろうか?
河合刑事がもう一つ引っかかっていたのが、
「マジックミラー」
のような発想であった。
そして、マジックミラーというものを考えた時、これも探偵小説などでよくあることとして、
「犯人にとって証拠になるものを隠す場所として、一番都合がいいのは、警察が一度捜査して、そこにはないということが証明されたところだ」
ということであった。
これは警察に限らず、探し物などでも、一度自分で確認し、
「その場所にはない」
ということが証明されれば、
「もう二度と同じ場所を探すことはない」
ということである。
この二つを組み合わせて考えると、
「何か見えてくるものがある」
と考えるのであった。
つまり、
「事件には、それぞれに段階がある」
ということで、小説の中にある、
「起承転結」
という発想であるが、それぞれの節目を考えた時、最初と最後を結ぶには、
「その途中を理路整然としてつなぎ合わせて、一本の太い綱にすることで、たくさんの事実が絡み合うことで、一つの真実が出来上がる」
といえるのではないだろうか。
だから、警察は、状況証拠を組み立てると同時に、物的証拠を探す。
おちろん、状況証拠に沿った形での捜索を行おうとするのだが、それこそ、人間特有といわれる、
「無限の可能性」
というものは目の前に見えている、いわゆる
「関係のないものを排除した中での合理性から考える」
という狭い範囲に落ち込んでしまうということであろう。
それが、いいところとしていかせられればそれが、
「判断力」
ということになるのだが、悪い方に生かされてしまうと、
「見えているものが見えない」
という、まるで、
「路傍の石」
のような発想になるのではないだろうか?
それが、
「推理小説というものの発想」
ということになり、
「できるはずのない完全犯罪をいかに組み立てるか?」
というところになるのだろう。
そして、それをストーリーにすることで、出来上がった話から、実際の事件というものとの共通点ということで、
「完全犯罪というものはありえない」
というところに来るのであろう。
となれば、
「心理的な揺さぶり」
というものによって、完全犯罪に少しでも近づけるということが、犯罪者にとっての、考えどころといってもいいだろう。
今回の事件で、問題となったのは、目撃者として現れた塩崎をひき逃げしたのだが、その内容が、目撃内容と同じだったということから、
「塩崎をひき逃げした犯人と、信二をひき逃げした犯人が同じ」
ということで、理屈が合うと考えることができれば、事件は解決するのかも知れない。
作品名:限りなく完全に近い都合のいい犯罪 作家名:森本晃次