限りなく完全に近い都合のいい犯罪
という顔で、自分が責められている理由をまったく分かっていない様子だったのだ。
「それが、国鉄の正体だ」
と言ってもいいだろう。
そんな体質だったから、
「親方日の丸」
といわれていたのだ。
それが、民営化されたことで、どんどん赤字のところは露骨に切り離していく。
「赤字路線を自治体に売り渡して、第三セクターという形で、自分たちからは切り離す」
という形をとっていた。
しかし、それでも、
「新しい車両をたくさん作る」
ということはしていた。
もちろん、
「車両の老朽化」
というものが深刻だったのかも知れないが、民営化のタイミグで、新型車両に変えることで、市民に、
「新しい企業、JR」
ということで、アピールし、営利目的の会社であることを、鮮明にしようとでも思ったのだろう。
つまり、
「最近の車両故障というのは、その頃に作った車両が、ほぼ同時に老朽化してきたことで起こっている」
ということで、本来であれば、寿命が分かっているので、もっと前から、少しでも補修を行うか、新しい車両に変えていくという方法が取られるべきだったのだ。
「お金の問題」
というのであれば、余計に、早い時期から、徐々に変えていくということをしておけば、今になって、
「ほとんどの車両が、欠陥車両」
などということでの、今のような。毎日のように発生する、
「車両故障」
というものはないだろう。
踏切なども、老朽化で、誤作動を起こせば、それこそ、大惨事に陥ってしまうということになるのに、それも、ちゃんと対応しているのかどうか分かったものではない。
何しろ、市民は何も知らされることはないからである。
ただ、この問題は、
「旧国鉄」
に限ったことではない。
「私鉄」
においても、言えることであり、特に、
「地元で一番の企業」
などどなると、まるで、
「独裁者」
のような振る舞いとなる。
それこそ、
「親方日の丸」
とでもいうように、
「自治体が頭が上がらない」
ということになれば、完全に、市民を蚊帳の外において、自治体と鉄道会社の間の駆け引きが、元々の鉄道会社としての存在意義を揺るがすことになるのではないだろうか?
だから、最近の鉄道による遅延は、以前のような、
「人身事故」
というものよりも、
「車両故障」
であったり、
「信号機故障」
などという、整備不良を思わせるものが多く、しかも、それが確信犯であると考えると、
「人身事故よりもたちが悪い」
といえるだろう。
「人身事故は仕方がない」
というのは、理屈としては確かにそうかも知れない。
自殺者がほとんどであれば、確かにそうだろう。
しかし、
「旧国鉄のように、踏切のインターバルに致命的な欠陥が前述のようにある状態では、急いでいる人は、遮断機を乗り越える」
というくらいのことはあるだろう。
さらには、車が踏切内に入り込んで、ラッシュ時には、先に進めず、戻ることもできずということで、遮断機が下りた状態で、線路内に閉じ込められるということで、大惨事を防ぐために、緊急停止ボタンを押すということになるだろう。
確かに、踏切内に侵入して抜けれなくなった場合は、運転手が全面的に悪いといってもいい。
しかし、それも、
「踏切の致命的な欠陥がなければ、イライラすることも。最低限に抑えることができて、踏切内に閉じ込められるなどということは防ぐことができる」
といえるだろう。
しかし、それができないのは、旧国鉄が、踏切の欠点を知っていながら、放置しているという確信犯的なことをしているからだ。
もし、それを、
「知らなかった」
などということであれば、それも、論外といってもよく、
「そんな状態で、よく社員だって言えるよな」
ということで、
「確信犯」
よりも、もっとたちが悪いといってもいい。
「そんなバカを雇っているのだから、雇用者責任ということで、鉄道会社の罪は、相当なものだ」
といえるだろう。
現れた目撃者の話では、どうやら、ちょうと、
「夜中の開かずの踏切」
というものに引っかかった時間だということであった。
夜であっても、
「開かずの踏切」
ということになることがある。
特に、駅間が近いところで、ちょうど、両方の駅から踏切に向かって各駅停車が来ている時などは、その電車がお互いに通り過ぎる間、遮断機が下りっぱなしということで、しかも、途中、特急電車の追い越しなどのある駅であれば、さらにたくさんの電車が通り過ぎるまで踏切が開かないということになる。
そうなると、10分以上閉まりっぱなしで、結局しびれを切らし、踏切までまだだいぶある車は、そこから方向変換し、他の道に行こうとするようだ。
その時、問題の車は、急いでいたのか、かなりのスピードで走り去ったのを見ていて、そこでひき逃げをしてしまったということだったのだ。
辻褄は合っていて、話に問題はなかったのだが、犯人を決定づけるものはなく、
「あくまでも、事故だ」
ということが、証言を信じるのであれば、証明されたということになったのである。
結局、目撃者が現れたとしても、そこに、事件の進展があったわけではなく、ただ、
「事件性はなく、事故だということが証明された」
というだけのことだったのだ。
ただ、清水刑事も、河合刑事も、
「なんでいまさら目撃者が荒合われるということになったのだろうか?」
というのが、不思議だったのだ。
そして、それから、すぐ、またしても、ひき逃げ事件が起こったのだ。
それは、まるで、
「目撃者が見た証言とまったく同じシチュエーションで、場所と時間に違いはあるが、内容としてはまったく同じだった」
といってもいいだろう。
しかも、ひき逃げされた男は、以前の事件の目撃者だった。
何とも不思議なことに、ひき逃げされた被害者は、
「まるで、自分がひき逃げされる場面を、それ以前に見たと小片しているようなものではないだろうか?」
それを考えると、今度のひき逃げというものが、
「何かの意志が働いている」
といえなくもない。
もちろん、わざわざそんなことを意識して起こす理由がどこにあるというのか、普通に考えれば、分かるはずがない。
ただ、清水刑事とすれば、
「今が、この事件における最後のクライマックスなのか、まだ、他に何かがあって、あくまでも、その途中なのか?」
ということで、それこそ、
「起承転結」
というものの、
「どの部分を進んでいるというのだろうか?」
ということが気になったのである。
実際に、
「ただのひき逃げ」
ということであれば、その時点で、ひき逃げとして、ウラを取るだけでよかったのだが、被害者が、
「詐欺を行っていた」
ということで、その裏付けも必要となり、そちらは、詐欺を専門に扱う課に任せることになり、
「交通事故とすれば、目撃者も現れないことから、詐欺捜査の中で何かが出てこない限りは、
「ひき逃げ」
ということで、あくまでも、事故であり、
「事故を装った殺人」
という証拠が今のところであるが、ない限り、
「殺人の線はない」
ということで、捜査を打ち切るしかなかった。
作品名:限りなく完全に近い都合のいい犯罪 作家名:森本晃次