洗脳の果てに
「明らかにおかしい」
と考えられることであるが、鏡に映っているもので、実際に冷静に考えれば、
「明らかにおかしい」
と思うのに、実際には、
「それが当たり前だ」
というような感覚になるというのは、それこそ、
「錯覚」
あるいは、
「錯視」
というものなのかも知れない。
というのは、
「鏡において、左右は対称になるのに、上下は対象にならない」
ということである。
「左右が対象になるのだから、どうして上下も対象にならないというのか?」
ということであるが、
「これが凸レンズであれば、迷うことなく、上下が反転している」
しかし、それは、
「凸レンズだから」
ということを納得できれば、それが問題ではないということになるのだった。
実際に、これのハッキリとした証明はなされていないが、発想として言われているのは、
「後ろから見た姿を思い浮かべる時」
ということで、そうなると、左右は対称に見えるが、前後は対称ではない。
これは、自分が来ている服にプリントされているデザインでも同じことで、
「自撮りすると、文字が対称に見える」
というのと同じ発想である。
きっと、自分が写った姿だけではなく、あらゆるものが鏡に映ると、
「左右は対称だが、上下は対象ではない」
ということになるのだろう。
それが、
「錯視」
というものであろう。
そんな中で、この時の少年は、どうやら、その、
「相対」
あるいは、
「正対する」
というものを分かっていたのだという。
それを証言できるのは、彼の母親である、
「真島洋子」
だったのだ。
その息子は、名前を、
「真島陽介」
という。
間島が、そんな能力を持っているということを、母親の洋子は、誰にも話さなかった。
もちろん、父親の豊三も話さなかった。
豊三は誰にも言わなかったが、息子の陽介に対して、少し怖いところを感じていた。
最初は、
「生まれてきたことだけで、奇跡の子だ」
と思っていたが、実際に、奇跡だと思ってしまうと、本当に奇跡といっていいものか、少し怖いと思うようになったのだ。
それは、豊三の気の弱いところかも知れない。
もっとも、この豊三の気の弱さというものが、ある意味、この事件の恐ろしいところを象徴しているといってもいいかも知れない。
豊三は、子供が怖いと思うその証拠は、名前に現れていた。
そのことを本人の豊三が意識していないということが、それだけ、寂しい思いをしているということなのかも知れない。
というのは、
「親というものは、子供に自分や家族の名前を付けたい」
というもので、それを世襲のような形で意識している人も多いだろう。
しかし、息子の名前を付ける時、
「奇跡をもらった母親から一文字もらって」
と思っていたのだが、
「漢字まで一緒というのは、ちょっと」
と感じたのだ。
そこに恐怖を感じたのか、
「よう」
という字を使おうと思っていて、もし、同じ漢字を使うのだとすれば、
「洋」
と書いて、そのまま一文字で、
「ひろし」
と読ませようと考えたかも知れない。
実際に、母親は、自分の中では、この、
「ひろし」
という名前を気に入っていたのだ。
「自分が奇跡を起こした」
ということはちゃんと意識していて、だからこそ、
「私の名前をつけようとしてくれている父親に感謝していた」
ということなのだが、実際に名前が付くと、そこには、
「読み方は一緒でも、漢字が違う」
ということを見て、洋子は、少し旦那が怖くなった。
死の恐怖を乗り越えられたのは、間違いなく、
「旦那が支えてくれたからだ」
ということになっている。
しかし、それだけではなく、
「二人で起こした奇跡だ」
とも思っていたのだ。
しかし、実際に奇跡が起きてしまうと、
「旦那と私の間に、決定的な距離感があり、踏み込むことのできない結界というものを、自分で感じることになるとは、思ってもいなかった」
ということであろう。
だから、
「夫には、近づくことのできない結界がある」
という風に思い、名前を変えることくらいしか思いつかなかったのだろう。
と洋子は思った。
だが、支えてくれたのは旦那だった。だから。子供に対しても、奥さんである自分に対しても、ずっと気を遣っているのだ。
ということであった。
旦那の気持ちを考えていると、自分も旦那に対しても、息子に対しても、気を遣っているということが分かった。
「では息子はどうなんだ?」
と考えたが、それぞれに何か気を遣い、不気味あっていることに変わりはないのであろうが、息子には、
「気を遣っているというそぶりが見られない」
と思うのであった。
それを考えると、
「三すくみのようで、三すくみではない」
と思うと、
「似て非なるもの」
ということで、
「三つ巴」
というものを思い出した。
三つ巴というのは、
「三角形の頂点がすべて頂点であり、その力がすべての方向に緊張を保たれることから、
「力の均衡が、バランスを保っている」
というものだ。
三すくみというのは、そのバランスを支えているのは、
「力の均衡」
というものではない。
どちらかというと、
「力のけん制」
というもので、
「お互いに影響しあうことが、抑止力に繋がり、それが、まるで、
「東西冷戦時代」
に起こった、
「核開発戦争」
という、
「核の抑止力」
である。
つまり、
「使ってしまえば、世界はその瞬間に、滅亡が確定する」
ということで、原爆の報道を聞いた時、チャーチルは、
「これで戦争が不可能になった」
というが、まさにその通りであろう。
「使えば、相手国だけでなく、自国も終わりなんだ」
ということであるが、もっといえば、全世界が、なくなってしまうということになるのであった。
「キューバ危機」
の時、同時のアメリカ大統領である、
「ケネディ」
は、
「核戦争によって、アメリカだけでなく、全世界の子供たちが死んでいく」
という幻影に苦しめられたのだという。
それだけ、戦争において、ひどいということになるのか、ケネディには、実際に瞼を瞑れば見えていたのかも知れない。
それが、アメリカという国が、当時から、
「世界の警察」
と言われていたということであろう。
世界の盟主になるということは、それだけ責任が重たいということになるであろう。
それを思うと、
「今の時代がどのような時代なのかというのが、過去からつながっているのだ」
ということを示しているということになるのであろう。
陽介少年が誘拐されたというのは、これもまた不思議な事件だったようだ、
昔の捜査資料に書かれていることというのは、
「確かに誘拐事件とは表記してあり、決して、未遂事件というわけではない。間違いなく、誘拐というのは行われたのだ」
という。
「しかし、誘拐したにも関わらず、犯人は身代金要求もしてこず、さらには、すぐに人質を返している。しかも、被害者と接触を図ろうとしていないのだ」
もちろん、
「誘拐声明」
というものは、出していた。
「お宅の子供は預かった。指示を待て」