洗脳の果てに
「教師として失格だ」
と思ったことだろう。
そう、
「精神的な成長には、大人になるという意識が、デリケートなために、中には、大人になりたくない」
という意識を植え付ける人もいるだろう。
特に、大人になると、
「言い訳が多くなったり」
あるいは、
「人のせいにする」
という人が増えたりするということなのである。
確かに、
「言い訳ばかりしていると、そんな大人になりたくない」
という意識が強くなり、
「大人とは、言い訳をしたり、他人のせいにすることで、自分を正当化させるものだ」
というのは、
「学校の先生を見ているとよくわかる」
というものであった。
先生は、
「聖職者」
と言われるが、昔からの学園ドラマと言われるものでは、昭和の頃など、
「判で押したような教師」
というのは、必ずいたものだ。
熱血根性教師と呼ばれる先生が主人公で、
「ジャージを着て竹刀と持った」
という体育教師がいて、
「身体を鍛えれば、精神も鍛えられる」
という危険な思想を持つことで、今なら。完璧、
「パワハラだ」
ということになるのだろうが、結局、
「スパルタ式の教育方針」
に魅せられた理想だけを追いかける教師の代表例だということであろう。
そんな体育教師がいるから、子供がスパルタについていけずに、肉体が悲鳴を上げることで、精神が、病んでしまう。
つまり、
「精神も肉体も、一緒に崩壊する」
ということで、一番たちが悪い状態になるのであった。
だから、肉体が悲鳴を上げる状態に、精神がついてこれないということで、精神は、スパルタの逆をいくことになる。
先生に対して、恨みや憎しみを持つことで、
「スパルタについていけない肉体が、まるで罪悪であるかのような考え方になってしまうと、それがストレスになって、精神が病んでしまう」
ということになるのであろう。
それを考えると、
「熱血と根性は切り離さなければいけない」
といえるのではないだろうか?
昔の学園ドラマの主人公は、熱血であり、根性論を振りかざしていた。
特に、ラグビーやサッカー、さらには、剣道などという、どちらかというと、根性ものがよく主題となっていたことだろう。
よく出てくるシーンとして、海に向かって。
「バカヤロー」
と叫ぶシーンであったり、
「田舎の駅のプラットホームを使って、上り線と下り線のプラットホームを使って、ラグビーのパスをしている」
などという、
「物まねのネタでしか、今は使わない」
ということで、
「お笑いでしか、今は有効ではない」
ということになるのであった。
もっといえば、
「今、同じことをやると、完全にコンプライアンス違反」
ということになる。
そして、一人で、海に向かって意志を投げたり、
「バカヤロー」
などと叫んだりすると、
「あいつは、ヤバいやつ」
ということになるであおる。
バカヤローという言葉自体も、あまり好まれるものではない。
もし、
「ヤバいやつ」
という認識がなくとも、
「孤独で寂しいやつだ」
ということになり、そんなやつは、今の世界では相手にされない。
もっとも、
「孤独で寂しいやつ」
というのがどんどん増えてきていて、今から30年ほど前から、すでに、
「苛め」
というものは、昔と様子が変わってきていて、昔と違って、理由らしいものがまったくないのに、
「ただむしゃくしゃする」
というだけで、いじめに発展するという時代になってきたのだ。
それが引き籠りを呼び、今では、
「大人の引きこもりもいる」
ということで、それが、
「コンプライアンス違反」
という問題を、社会問題にしたのだろう。
そんな、
「青春学園ドラマ」
というものが、流行った時代。
スポーツの中でも、長い間、迷信と言われるようなものが信じられていたりしたものだった。
それが、どういうものなのかというと、
「学校の部活中などで、水分を摂ってはいけない」
と、長い間、信じられていた。
今では、そんなことをすると、
「熱中症になる」
ということで、
「こまめに水分補給を」
と言われるようになった。
さらに、昔を知っている人は、何か違和感を感じるのではないだろうか?
というのは、
「熱中症」
という言葉にである。
熱中症という言葉が、
「いつから言われるようになったのか?」
ということであるが、昔は、
「日射病」
という言葉を使っていたはずだ。
違いは明らかにあるのだろう。ハッキリと違う言葉として存在しているからである。
そういう意味で、昔使っていた言葉が、違う言葉にいつの間にか変わっているというのも、結構あったりする。
その一つの例として、
「不登校」
というものと、
「登校拒否」
というものがある。
苛めが問題になり、
「引きこもり」
というのが社会問題になってくると、それまで、
「登校拒否」
と言われていたものが、
「不登校」
と変わったのだ。
「登校拒否というのは、自分の意志が働いて、学校にいかない」
というものであるが、
「不登校というのは、苛めなどが恐ろしくて、学校に行きたいという意志があるのに、いけないという状況をいう」
ということで、不登校の方がたちが悪いといってもいいだろう。
それも、学校に来ない本人が悪いわけではなく、原因は明らかに、その人を、学校に越させないという原因が存在するわけで、それを解消しないと、らちが明かないということになるだろう。
だから、
「不登校の方が、奥が深い問題だ」
ということになるだろう。
もう一つ、変わった言い方としては、
「副作用」
というのと、
「副反応」
というものであるが、これは、そもそも、
「世界的なパンデミック」
によって、危険なワクチンが開発され、それを臨床試験も満足にできていない状態で、
「国民を実験台」
にして射たれたワクチンに対しての
「副作用」
を、
「副反応」
というのだ。
つまりは、副反応とは副作用の中でも、ワクチンや予防接種などで生じた副作用のことを特別にそういうのだということであった。
「相対」
あるいは、
「正対」
というものを、子供は理解できていない。どこか、それらのものに対して、
「物心がつく」
ということもあるのではないだろうか。
そして、一つ感じることとして、考えるのは、
「正対しているものとして、当たり前のように感じているが、実は、とても不思議に思えることもある」
ということだ。
明らかにおかしいというものの代表としては。
「合わせ鏡」
などが、その例として挙げられるのではないだろうか?
合わせ鏡というのは、
「自分の前後に鏡を置いた時、永遠に自分の姿が映っている」
というもので、その姿は次第に、遠く小さくなっていくのだが、その姿が、
「無限である」
ということと引き換えに、
「限りなくゼロに近いものだ」
と考えられるのではないだろうか?
それを考えると、
無限であるがゆえに、
「絶対にゼロにはならない」
ということで、ある意味、
「数学式の証明」
といってもいいかも知れない。
それは、