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洗脳の果てに

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 子供が大人になると、
「子供の頃、天才と言われていた子供は、普通の大人になる」
 と言われるものだ。
「末は博士か大臣か?」
 などと言われていた子供が、
「二十歳過ぎればただの人」
 ということである。
 これは、たぶん、
「成長には限界があり、早熟であっても、晩生であっても、その人が迎える限界は決まっていて、早いか襲いかの違いだけである」
 ということになるのではないだろうか。
 というのも、
「それまで、子供から大人になる時の、子供の状態は、どちらかというと、早熟だったかも知れない」
 ということであった。
 というよりも、
「幼児の頃の特徴としては、男の子なのに、まるで女の子のように肌が白く、細々としていた」
 という印象であった。
 だから、小学生の頃までは、女の子の方が大きい子が多かった。
 もっとも、小学生くらいの頃の成長は、
「男の子よりも女の子の方が早い」
 と言われていて、平均身長は、
「女子の方が高い」
 というクラスもあったくらいだ。
 しかし、中学生になり、思春期を迎えると、男子の成長は目まぐるしく、
「ちょっと見ない間に、背が低かった男子が、皆のっぽになっていた」
 などということは当たり前にあることであった。
 女性が、いくら高いといっても、170cmもあれば、相当なものである。
 しかし、男子は、中学生の間に、それを飛び越えて、180cmくらいになっているなどということは、ざらである。
 そんな中学生というのは、
「誰もが通る大人への階段」
 といえばいいのだろうか。
 ちょっときざな言い方ではあるが、中学生が成長する間に、
「精神的な成長と、肉体的な成長がある」
 ということで、これは、
「必ずしも比例しない」
 といえるだろう。
 ただこれは、肉体的な成長にも、精神的な成長にも種類というものがあるのであって、
「肉体的な成長といっても、身長が伸びるという成長もあれば、身体自体が大人になるということで、女性であれば、初潮を迎えるなどという、明らかに大人になるという、身体の機能というものがかかわっていることである」
 と言える。
 精神的なものとすれば、
「これまで、親に頼っていたことを、自分でできるようになるなどの、精神的な成長というものがある」
 ということだ。
 これは別に、精神的とはいえ、
「背伸びをする」
 ということではない。
 身体の成長に合わせた精神的な成長が望ましいのである。
 逆に身体の成長も、精神にマッチしていなければ、結局精神的に、ストレスを抱えることになり、それが、自分にとって、うまくいかないということになるのである。
 それを考えると、
「やはり、精神的な成長と肉体的な成長とが、それぞれ無理をするようなことがあってはいけない」
 ということになるであろう。
 精神的な成長で、どうしても勘違いしてしまうのは、
「身体が成長すれば、精神も一緒に成長してくれる」
 という感覚である。
 しかし、それは危険な発想である。
 どうしても肉体的な成長が早いと、精神的にも、そこに追い付こうとして、まわりから、
「ませている」
 などと言われるであろう。
 確かに、ませていることもは、まわりのまだ成長の未熟な人を巻き込んで、
「自分が仕切ることで、マウントを取ろう」
 と考えてしまうのかも知れない。
 それを考えると、
 身体の成長というものが、うまくいかない場合もある。
 というのは、身体の成長にも種類があると言ったが、その成長がそれぞれに、バラン祖を取っていないといけないものが、アンバランスになってしまうと、自分が考えているよりも、
「何もできていない」
 という感覚になってしまうかも知れない。
 というのも、
「なんでもできる」
 と、思春期には思ってしまうことが多いようで、それだけ身体の一部は、自分で想定しているよりも、早く成長しているのだ。
 だから、そのレベルに基準を合わせてしまうと、
「俺って、早熟なんだ」
 と勝手に思い込んでしまう。
 たとえば、
「背が伸びるのが早く、中学生でもう170cmを超えていた」
 などというと、どうしても、上から目線になってしまう。
「上から目線」
 というものがどういうものなのかを知らずに、本当に上から見てしまうと、無意識に、
「まわりが小さく見える」
 という感覚に陥り、
「皆が自分よりも、下等なんだ」
 という思いを抱いてしまうと、もう一人の自分が、
「そんなことはないんだ」
 といって、言い聞かせる。
 よくアニメやコントなのでは、自分の中に、
「天使と悪魔がいる」
 という描写があったりする。
 考えてみれば、
「天使と悪魔」
 というのは、
「いて当たり前だ」
 という意識がある。
 それは、天使から悪魔を見た時、
「何か、うまくいかなかった時のための言い訳として、自分の中に悪魔がいるのではないか?」
 と考えるかも知れない。
 言い方は悪いが、
「手柄は全部、天使のおかげで、失敗などは、すべて悪魔がやったこと」
 ということで、自分を納得させるということになれば、それが、一番、
「自分の中の辻褄合わせなのかも知れない」
 ということになる。
 自分の中に、
「正対するもの、相対するもの」
 というものがあるということは、自分としては、
「物心がつく頃から分かっていたことなのかも知れない」
 と考えてしまう。
 ということは、それがどういうことなのか?
 外国の小説で、
「ジキル博士とハイド氏」
 という小説があり、それが、二重人格というものの証明のようなものではないだろうか?

                 脅迫事件

 そんな相対するもの、正対するものが、一人の人間に宿るというのは、一部の人間だけなのか、それとも皆そうなのか、証明はできないかも知れない。
 というのも、
「皆そうなのか?」
 というところの、
「皆」
 というのは、どこからどこまでを刺しているというのだろうか?
 例えば、年齢の問題である。前述のように、
「子供から大人になる年齢」
 というのは、
「人によってバラバラで、個人差がある」
 というではないか。
「大体の年齢の幅がある」
 ということにして、その幅を、最大公約数として考えれば、
「10歳くらいから、18歳くらい」
 としてしまうのは、幅が広すぎるだろうか?
 確かに、
「高校2年生から3年生の間に身長が5cm伸びた」
 という人の話を聞いたことがあった。
 というのは、実は親友がそれで、高校2年生の頃までは明らかに自分の方が高かったのに、3年生になると、逆転していたということだったのだ。
 本人が一番びっくりしていて、3年生の健康診断で実際に計測するまで、その友達は、自分の身長が、ごぼう抜きに高くなっていたなどという意識はなかったようだ。
 もちろん、
「身長が伸びた」
 という意識はあったようだが、まさか、そこまでとは思っていなかったのだろう。
 先生は気づいていたということだが、
「思春期の青年は、精神的にデリケートなので、こっちがほめているつもりであっても、実際には、相手を傷つけたりする」
 ということになってしまうと、
作品名:洗脳の果てに 作家名:森本晃次