洗脳の果てに
ということだろう。
しかし、結果としては、想定内だったといえるだろうか。
ひょっとすると、
「ある一瞬を辞めさせれば、バブルの崩壊は防げたのかも知れない」
ともいえる。
だが、これも逆に考えると、
「時代の流れを抑えるということができるわけがない」
ということである。
それがどういうことなのかというと、
「その時だけ、うまく逃れても、いずれはまた危機がやってきて、その時は、どうしようもない状態になっているかも知れない」
ということで、
「結局、遅かれ早かれ、崩壊するものは崩壊するんだ」
ということであれば、
「どのタイミングの時が一番被害が少なくて済むか?」
ということになる。
ただ、これに関しては。
「バブル崩壊というものを、どこかの団体が分かっていて、ずっと研究をしているとするならば、それを抑えることが本当にできたのか?」
ということは誰にも分からない。
そもそも、その検証というものを誰かがしているのだろうか?
少なくとも、
「バブル崩壊は、想定できなかった」
という。
「まるで天変地異のようなものだ」
ということであれば、誰にも分かることではないといえるだろう。
国民全員にウソをついていたのだとすれば、
「墓場まで、そのウソを持っていくのが、ウソをついた人間の責任だ」
といってもいいだろう。
ここで、
「本当は分かっていた」
と後になってから言っても、それは、後の祭りであり、誰も得をするわけではなく、
「何をいまさら」
と言われて終わりである。
その時、
「信頼が失墜してでも、知らなかったと言い張る」
ということであれば、その時の選択が、
「どれをとっても、いいことはないというのであれば、どれが、被害が少ないということであろうか?」
ということになるのである。
それを考えると、政府なのか、経済団体なのか、それとも、学会のようなもおのが、国家機関として存在しているのか?
そのどれかに責任があるとするのは、本当に正しいのだろうか?
何といっても、銀行が、
「過剰融資」
などという、ちょっと考えれば恐ろしい方法を、公然と使い、まるで、それが一番正しい方法とでも言わんばかりにふるまっていたのだから、
「銀行に責任がある」
という人もいるだろう。
しかし、銀行とすれば、
「利益もちゃんと出ていて、まだまだ伸びるということを事前調査で見ていたのだから、それも当たり前のことだ」
ということであろう。
「自分じゃなくても、他の人だってやる。だから、自分が躊躇して、他の人が出てくれば、自分が遅れを取る」
ということになるのだ。
だから、
「過剰融資を行った」
という銀行員は、果たして会社に損をもたらしたといって。弾劾できるのだろうか?
会社というのは、
「利益を出さなければ、害悪だ」
というのが、経済学、経営学の基本である。
だから、過剰融資で利益を稼ぐ」
というのは当たり前のことであり、それができなければ、
「社会の害悪」
ということになるだろう。
それを考えれば、
「社会貢献というのがいかなるものなのか?」
ということではなく、
「会社に利益をもたらせれば、自分が優秀な社員ということで出世もするだろうし、給料も上がる」
ということになるのだ。
要するに、会社員は、
「会社がどうなろうと、自分に利益になればそれでいい
ということである。
その間に、バブルの時代は、優秀な社員を引き抜いたりということも結構していただろう。
年功序列に終身雇用というものが、崩れてきた時期があったとすれば、それは、
「バブル崩壊」
からではなく、その前兆として、
「バブル期からあった」
といってもいいだろう。
それを考えれば、
「もし、バブル期に引き抜かれた人が、バブル崩壊でどうなったのか?」
ということを考えてしまう。
「せっかく移ったのだが、会社が倒産してしまった」
ということもあるだろう、
逆にいえば、
「あの会社に前からいれば、その会社が潰れていた」
ともいえるだろう。
だが、
「どの会社が、潰れずに残っているか?」
などということが分かるはずがない。
何といっても、潰れずに残れるかどうか、わかるわけもないし、バブルの崩壊というのは、その時だけのことではないのだ。
つまりは、
「今は残っていても、そのうちに潰れてしまうか?」
あるいは、
「大きな会社に吸収合併されてしまうか?」
ということは、
「一寸先が闇」
というわけである。
実際に、バブルの崩壊の影響は、
「30年経った今でも、バブルの崩壊は終わっていない」
と言われるように、
「失われた30年は、まるで底なし沼のようではないか?」
ということである。
それを考えると、
「動いた方がいいのか、動かない方がいいのか?」
誰にも分かるわけではない。
大空襲の時でも、防空壕に逃げていても、そこに爆弾が直撃すれば、本当に助かると言い切れないではないか?
というものである。
「何が正しい」
というのは、もし、その状態が終わってしまっても、分かるわけではない。
「その日は死ななかったが、翌日は、爆弾の直撃意を受けるかもしれない」
という恐怖に、毎日生きていれば、精神が病まないわけはない。
完全に、感覚はマヒしてしまい、
「自分がどうなってしまうのか?」
ということが分からないとも言い切れないだろう。
だから、
「動くか、動かないか?」
という選択は、あくまでも、その人の性格でしかない。
逆に、
「人が行動して、失敗すれば、それを踏まえて、また考える」
という人もいるだろう。
ただ、それが
「一番正しい」
といえるかも知れないが、それも、
「先着を最優先する」
ということであれば、
「戸惑っているうちに、すでに終わってしまっている」
ということになりかねない。
それが、選択の中での、
「究極の選択」
というものに繋がるのであれば、それは、誰にそれが分かるということなのか?
そんなことを考えていると、
「マンションにしても、一戸建てにしても、分譲というのは怖い」
と思うのだ。
確かに、
「毎月の賃貸料を払うことを思えば、分譲を30年ローンとかで返す方が安い」
ということになるだろうが、
「いつ、会社をクビになって、ローンが払えなくなるかも知れない」
と思い、最悪を考えてしまい、
「夜逃げなんてことになれば」
ということを頭に描くと、とてもではないが、
「分譲を買うなどということはありえない」
という結論いしかならないだろう。
これは、考え方の問題で、最後の決定を促すのは、
「その人の性格」
である。
「慎重派なのか、それとも、この時とばかりに決めれば、猪突猛進となるか?」
ということである。
どちらがいいとは言い切れない。猪突猛進でもその性格で、巨大企業を築くかも知れないからだ。
しかし、それがいつまでも続くとは限らない。天変地異だって起こることだろう。
「自分には経営者は向かない」
と思ったのであれば、最初から、
「サラリーマンで生きる」
ということになるからだ。