洗脳の果てに
「子供は預かっている」
というものが来たからであった。
実際に子供は行方不明。誰もが、
「誘拐だ」
ということになったとしても、それは無理もないことであった。
だが、実際には、
「未遂」
という形での誘拐だったことで、警察も、その後捜査をしたが、何といっても、犯罪という形になっているわけでもないので、証拠も何も残っていない。
すぐに、捜査は打ち切られ、
「誘拐事件というものがあった」
ということですら、忘れられていたかのようであった。
その頃はまだ、携帯電話も普及し始めたばかりということで、インターネットすら、まだまだ、初期の段階くらいだったのだ。警察の捜査も、そこまでの科学捜査ができるわけでもなかったということである。
まるで、
「泡のような誘拐事件」
誰もが忘れてしまっても、無理もないというものだ。
そんな生まれたての子供を誘拐し、何をしようとしたのか?
すでに、事件も解決し、実際に犯人捜査もなければ、犯人が、何か別の方法で、この家族を脅迫してきたり、生活を脅かしてくるということもなかった。
それを思えば、被害者たちも、自分たちの平穏な生活を取り戻すことに躍起になるだろう。
半年近くも経って、何もないのだから、生活リズムを穏やかな方にシフトしていくことが当たり前のようになるのであった。
実際に、警察が、事件を追う中で、
「まったく捜査に進展がなかった」
というのは気になるところであるが、
「いつまでも気にしていても仕方がない」
ということで、何よりも、子供とすれば、まだ物心もついていないので、
「自分が誘拐された」
などということが分かるはずもない。
だから、
「それなら、バレないようにするのが一番だ」
ということになるだろう。
だから、親も、どこかで、
「何事もなかった」
というそぶりに戻らなければいけない。
それは、子供にバレないのはもちろん、まわりの人にバレないようにもしないといけない。
幸いなことに、あの時誘拐事件があったということは誰も知らないだろう。
誘拐といっても、何事もなく、無事に子供は返ってきて、被害もなかったのだから、さすがに、
「未遂」
というのはおかしいが、せめて、数日、
「子供を預かっていた」
というだけだから、脅迫もしていないし、被害者は、心痛だけで、形となる被害があったわけではない。
そうなると、被害者の方も、
「なるべくオフレコで」
ということになるだろう。
だから、子供としても、何事もなかったように、すくすくと育っているということで、いいことだったのだ。
ただ、両親は、その時たまったものではなかっただろう。
何といっても、
「母体を助けるか、子供を助けるか?」
という選択を迫られた状態において・
「何とか、両方とも助けることができた」
ということで、胸をなでおろしたところにもってきて、
「誘拐事件」
に巻き込まれたのだから、本当にたまったものではない。
しかし、これは逆にとればどうだろう?
「母子、どちらかは死んでいた」
と思えば、二人とも助かったというのは、
「奇跡だ」
ということであったし、誘拐事件にしても、
「無事に子供は返ってきて、しかも、何も脅迫めいたこともなかった」
ということで、安心できる状態になったのだから、
「これほど安心できることはない」
というものだ。
危機にはあったが、結果として、最良の状態に保てたというのだから、
「捨てる神あれば、拾う神あり」
とでもいえばいいのではないだろうか。
そんなことを考えていると、
「これが、自分たちの運命なのかも知れない」
と感じていた。
正対、相対するもの
子供が二十歳になると、今では、大学生になっていて、都心部の大学に入学したので、
「家からは通えない」
ということで、一人暮らしをするようになった。
一人暮らし二年目ということで、大学にもだいぶ慣れてきて、友達もそれなりにいるので、
「幸せなキャンパスライフを楽しんでいる」
ということであった。
両親もすっかり、年を取ったと思っていて、
「もう、あの子にも手がかからなくなった」
と考えていたのだ。
両親も、そろそろ40代後半ということで、幸いにも、会社での仕事も順調で、会社も経営が危ないということもなかったのだ。
さすがに今の時代、
「一軒家を購入」
などということができるわけもなく、賃貸マンションで、ゆっくりと暮らしていた。
「全国を飛び回るような転勤がある」
というわけではないので、実際には
「一軒家を購入してもいい」
という状況にはあったが、今までの世間の情勢を見ていると、
「とてもではないが」
と思うのだった。
というのは、一番の問題は、
「お金の問題」
ということではなかった。
昭和の終わりことから、世紀末までにかけて、いろいろなことが起こった。
「事件もそうだし、天変地異と言われるような、大地震であったり、災害が、毎年のように起こり始めた」
ということである。
世界は、
「地球温暖化」
などということで、
「これから、天変地異がいつ、どこで起こっても仕方がない」
と言われた。
特に関西で起こった大地震で、
「高速道路が横倒し」
という写真を見た時、
「これは、天変地異の前触れだ」
と思ったのだ。
しかも、
「日本の高速道路は、耐震構造がしっかりしているので、倒れることはない」
という神話があったではないか。
それが、いくら、
「そこまでの震度は想定していなかった」
と国やゼネコンは言い訳をするが、よく考えてみれば、
「想定外のできごとが起こるのが今の時代だ」
ということになれば、何も信じられないということになる。
バブルの崩壊でもそうだったではないか、
「銀行は絶対に潰れるわけはない」
と言われたのに、蓋を開けると、最初に銀行が破綻してしまったことで、
「バブルが崩壊」
ということになったのだ。
何よりも、
「偉い学者がたくさんいるのに、政府にしても、誰も、バブルの崩壊というものを予想できなかったのか?」
ということである。
大地震のような天変地異に関してはしょうがないかも知れないが、
「バブル崩壊」
というのは、あとから考えてのことであるが、
「誰にでもあとからなら分かることだ」
というだけに、
「本当に誰も気づかなかったのか?」
というのは怪しいものである。
つまり、
「誰も気づかなかったわけではなく、警鐘を鳴らした人は必ずいたはずで、それをどこかの組織だったり団体が、押さえつけたのではないか?」
ということも考えられる。
それこそ、
「言論の自由」
「報道の自由」
に対する挑戦といってもいいかも知れない。
しかし、これも逆に、
「俺たちがここで、報道を止めないと、いたずらに混乱を招くだけで、崩壊するとは限らないバブル経済が、ウワサや中傷によって、瓦解するということになれば、本末転倒だ」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「俺たちと違って、お偉いさんは、国家のことまで考えないといけない」