洗脳の果てに
ということも普通にあったりする。
どちらにしても、風俗に足を踏み入れてしまったことに変わりはないということになるだろう。
何も、
「風俗を非難しているわけではない:
むしろ、風俗というのは、
「癒しであり、お客さんにとっては、生きる糧になっている」
といってもいいだろう。
「素人童貞」
と言われる人も、いるように、そんな連中にとっては、本当に癒しだということになるであろう。
だが、彼女の場合は、本当に軽い気持ちで、友達に誘われて、嵌ってしまったのだ。
しかもその時には、彼氏がいたのだ。
本来なら、
「彼氏がいるのに、ホストに嵌ってしまうということが、許されないことなのに、彼はそれを許してはいた」
というのは、
「俺も人に自慢できるようなことをしているわけではない」
ということだった。
いくら、そこまでひどい詐欺をしているわけではないとはいえ、犯罪者であることに変わりはない。
その思いが強かった。
「だったら、そんな詐欺グループから抜ければいいじゃないか?」
ということになるのだろうが、
「組織としては、一番の罪悪は殺人」
ということであるが、その次というのは、
「脱退」
だったのだ。
これは、実は、詐欺行為を行っている祖である、手島の先祖というのが、
「新選組」
というものに、陶酔していた。
だから、
「あまりにも厳しい」
と言われるものを決めたのも、
「新選組の影響」
だったのである。
新選組では、副長である、
「土方歳三」
による、
「鬼の法度」
と言われるものがあり、それに基づいた鉄則が、決められていたのだ。
しかも、それを破った時は、
「すべてにおいて、切腹」
ということであった。
「武士道に背く行為」
あるいは、
「隊を脱すること」
あるいは、
「勝手な借金」
などというものは、すべてが御法度ということで、切腹の対象だったのだ。
最初の、
「武士道に背く」
というのは、かなり曖昧であるが、それだけに、隊士はいつもびくびくする形で、緊張感を持つことで、動乱の幕末をいく抜く力を持てたのかも知れない。
何といっても、土方歳三という男が、
「武士道」
というものに、かなり心酔していたからではないだろうか?
特に、戊辰戦争が始まってからというもの、
「敵に背を向けて逃げることは、敵前逃亡として許さない」
として、逃亡する兵を処刑したりもしたというのが、
「時代劇ドラマ」
などで、描かれているが、
普通であれば、
「敵前逃亡」
というものは、
「基本的に、重罰刑に値する」
というのが当たり前ということになっている。
「戦争放棄」
「平和国家」
と言われる、今の日本国においても、唯一、外国からは、
「軍隊」
として認識されている自衛隊であっても、
「敵前逃亡」
ということが発覚すれば、
「七年以下の懲役」
ということに、自衛隊法で決まっているという。
それだけ、災害救助などで、任務を怠ったり、出動命令に従わなければ、
「懲戒免職」
という、厳しい処断が待っているということであった。
それだけ、
「軍隊」
と目されているところは厳しいということである。
有事ともなれば、
「敵前逃亡」
というのは、結構厳しかったりする。
というのは、一番の理由としては、
「軍というのは、組織による団体行動であり、規律正しくない状態で、作戦を遂行すれば、ほぼ間違いなく失敗する」
しかも、
「兵が規律を失うと、総崩れになり、前線を突破され、本部自体が危なくなるからだ」
ということである。
「前線が盾になって、本部を守る」
というのが前線の役目であり、それを、
「ほとんどの兵は、ちゃんと規律が守れているのに、たった一人のために総崩れになり全滅などということになれば、大変だからである」
死んでいった兵も、浮かばれないといっても過言ではないだろう。
しかも、戦時においては、
「基本的に、降伏は許さない」
ということで、相手に投降することも許されなかったりする。
「そんな、気にしすぎる」
と言われるかも知れないが、それはあくまでも、
「戦争というものを知らない平和ボケの頭で考えた、お花畑的な発想だ」
ということになるだろう。
なぜかというと、
「投降すれば、捕虜になるわけである」
確かに、
「ジュネーブ条約(ジュネーブ協定とは別物)」
であったり、
「ハーグ陸戦協定」
などという、
「捕虜の扱いに関しての条約」
などが明記された国際法上の条約には、
「捕虜を迫害してはいけない」
ということになっているが、実際の戦争状態にあると、そんなことはいっていられない。
「戦争を早く終わら差なければ、被害がどんどん重なり、死者が増えていく」
ということになるのだ。
しかも、そもそも、
「戦争というのは、勝たなければいけない」
ということで、そのために、自軍の兵士であったり、非戦闘員が、死んでいっているのである。
その人たちのためにも、勝利を掴むしかないということで、
「敗戦となるくらいなら、最後の一兵になろうとも戦い続ける」
という覚悟のようなものがなければ、最初から戦争などできるわけはないということである。
そういう意味でも、大日本帝国における。
「戦陣訓」
と呼ばれる、
「虜囚の辱めを受けず」
ということで、
「捕虜になるくらいなら、自害する」
ということで、しかも、相手をなるべくたくさん巻き込んでの、手りゅう弾自殺というのもあったようだ。
基本的には、青酸カリが配られ、
「いよいよの時はこれを服用して」
ということになったのだ。
しかも、日本人は、アメリカ人を、
「鬼畜米英」
と教えられてきて、
「捕虜になれば、何をされるか分からない」
ということで、文字通り、
「どんな辱めを受けるか分からない」
ということであったのだ。
実際に、
「精神的に異常な状態に置かれている兵士の中に放り込まれると、人間らしさというものがまったくない状態に追い込まれ。何をされるか分からない」
ということになっただろう。
日本軍にも、アメリカ兵にも、他国の兵にも、同じことが言えたはずである。
それを考えると、
「捕虜になるということは、何をされるか分からない」
ということであり、普通に考えれば、将校や隊長のような立場であれば、
「拷問を受け、相手の内情を喋らされることになる」
と思うと、
「潔く自害をした方がいい」
と考えるのも、当然のことであろう。
そもそも、
「拷問を受けることに慣れてはいないだろう」
だからこその、戦陣訓であり、戦陣訓があることで、拷問を受けることを想定していないといってもいい。
そうなると、
「敵前逃亡」
というものも、
「投降する」
ということも、地獄でしかないのだ。
そもそも、
「敵前逃亡して、どこに行く」
というのだ。
今までの味方から逃れられても、それ以外のところには、そもそもの敵がいるのだ。そこに捕まれば捕虜となり、拷問を受けることになると思うと、
「進むも地獄。逃げるも地獄」
ということになる。
そうなると、