死体損壊と、犯罪の損壊
とは言っても、東京、大阪ほどのめちゃくちゃなラッシュではないというだけのことだ。
東京、大阪などでは、何やら、主要駅では、
「押し込みのバイト」
などという人がいるようで、
「牛ぎゅう詰めになった車内に、それでも乗り込もうとする人の背中を押して、強引に車内に入れ込んで、何とか扉を閉めさせる」
という人であった。
こんな光景、知らない人がみれば、
「人間なんて、まるで、家畜やもののようだ」
と思うかも知れないが、
「これが現実」
ということである。
そうなると実に大変なことで、
「扉は、同じ方向から開くわけではない」
ということになる。
だから降りる駅が反対側に出口があるなら、
「降りることは不可能」
ということになる。
すると、次に考えることとしては、
「押し込みのバイトに押し込まれるほどの押され方をすれば、降りれないということになるだろう」
ということになれば、
「一台やり過ごして、先頭に並べば、一番奥の扉付近に行くことができる」
と考える。
しかし、その時間なので、すでに、満車状態で、
「入るだけで必死な状態ということになれば、結局は同じことだ」
ということになるだろう。
そうなると、もう、
「この時間帯での通勤は無理だ」
ということになり、時差出勤ができるのであれば、時間ギリギリに出かけるか、あるいは、逆に、
「かなり早い時間に家を出てくるか?」
のどちらかになる。
時間を後ろにずらせばずらずほど、結局、
「遅刻の危険性が増すわけで、しかも、そこまで乗客が少ないわけではない」
ということになると、まだまだ早く家を出て、少しでも、早く会社につくということが一番だということになるだろう。
そうなると、家を出る時間も早くなるわけで、家でゆっくりしようと思えば、
「なるべく早く帰りたい」
ということになるのだった。
ただ、そううなると、
「帰宅ラッシュに引っかかる」
ということになるが、帰宅時間というのは、比較的、朝のラッシュほどではない。
この辺りは、しかも、東京、大阪ほどのめちゃくちゃなラッシュでもないので、そこまで朝のラッシュはひどくはないが、それでも、ピーク時間ともなると、あまり変わらないと思える状態だった。
だから、それほど早くではないが、少しだけ早めに家を出るようにしている。毎朝、同じバスで駅まで通っている人もいて、その人は、特急でいくので、急行に乗る門脇よりも、遠いところに会社があり、しかも、特急ということで、
「途中まではそうでもないんですが、会社の近くまでくると、結構人が乗ってきますね」
という。
「ちゃんと降りれますか?」
と聞くと、
「ええ、私が降りる駅は、乗降客が一番多いので、ほとんどの人が降りるという感じですね。だから、人の波にのまれる形で降りるから、却って楽ですね」
というではないか。
「なるほど、それなら安心ですね」
と門脇は答えたが、本心では、
「そういうところに勤務はあまりしたくないな」
というのが本音だった。
というのは、
「都心での生活は朝晩だけじゃないからな」
というのは、昼休みの食事を考えたからだった。
何といっても、昼休みの限られた時間、皆が昼食に出るのだから、いくら、
「飲食店が多い」
とは言っても、店の前で行列ができずに、すぐに食べられるなどというところは、そうもないだろう。
特に、ファストフードの店などは、
「店の中で食べるのは、本当に並ばなければいけない」
ということで、テイクアウトも結構あり、コンビニ弁当を買ったりする人は、それを持って、近くの公園で食べるということも普通にあったりする。
春や秋なら、それでもかまわないが、夏や冬ともなると、そうも言ってはいられない。
昼休みの休憩時間に、体力を消耗するというのは、本末転倒だといってもいいだろう。
公園の近くで、
「ワゴン車による移動式のお弁当屋さん」
というのが、いくつか見受けられ、しばらくそこのお弁当を買って、公園で食べていたが、夏と冬はそういうわけにもいかず、会社に持って帰って、デスクのところで食べたりしたものだ。
中には、テイクアウトや出前可能なお弁当屋もあり、そこには、朝10時くらいまでに、電話かFAXなどで、注文しておくという形で、注文する。
とにかく、都会には都会なりの、昼食を摂る方法というのが、いくつもあったものである。
いくつかの方法で昼食を摂るようになったので、最初の頃の。
「どこで食べればいいんだ?」
という心配はなくなってきた。
ただ、門脇は、
「あまり人込みは好きではない」
という思いと、何といっても、
「並んでから食べる」
ということは、自分の番になって食べ始めたとしても、
「後ろにはまだまだ並んでいる人がいる」
と思うと、ゆっくりもしていられない。
食べたらすぐに出なければいけないという切羽詰まった状態で食事をしたとしても、
「おいしいなど感じるわけもない」
ということで、最初からほとんど、
「お食事処」
といわれるようなところにはいかなくなった。
「味のタウン」
あるいは、
「お食事横丁」
などというような、
「レストラン街」
が存在するが、そこに駆け付けるサラリーマンの姿に自分を重ね合わせるということも嫌だったのだ。
だから、通勤ラッシュの電車で、まわりに人がたくさんいるのは、実に嫌なことだった。
「ここにいるのは、野菜か果物だ」
というくらいにしか思えない。
人間だと思うと、鬱陶しいとしか思えない。
「自分は、閉所恐怖症」
というわけでもなければ、
「パニック障害」
というわけではないので、そんなにラッシュを気にするわけではないが、
「嫌なものは嫌だ」
としか思えない。
それをどうにかしようと思うと、最終的には、
「皆一緒にいたくない」
ということで、
「野菜や果物」
と思うことで、少しは気分が晴れるというのも、最初は何か嫌だったが、
「そう思えば少しは楽だ」
ということになれば、
「それはそれで仕方がない」
と思えるようになった。
そう、
「いちいち他人のことを気にする必要などないのだ」
ということになるのである。
門脇は、そんなサラリーマン生活をしてくると、夜景を見るということも、毎日の、
「まったく変化のない生活」
というものを、
「当たり前のことだ」
と考えるようになったことが、少し苛立ちをとなっていた。
「どうして苛立つのだろう?」
ということは分からなかった。
家に帰れば、確かに、何かぎくしゃくした感じがした。
「一軒家を建てれば、家族が余裕を持って暮らせるだろう」
という思いから、
「余計な気を遣わなくてもいい生活」
というのを楽しめると考えていた。
しかし、それはまったくの勘違いというもので、
「確かに皆、前のように顔を合わせれば、皮肉めいたことを口にしていたが、家が広くなると、それが少しなくなった。
子供などは、自分の部屋に閉じこもっていて、奥さんは、家事を済ませれば、テレビなどを見ているという感じである。
別に、昔の
「父親の威厳」
作品名:死体損壊と、犯罪の損壊 作家名:森本晃次