無限であるがゆえの可能性
「最初の殺人が行われた時点で、加害者は、二人いることになる」
というわけである。
これは、
「主犯と共犯」
という形ではなく、
「主犯と実行犯」
という形である。
主犯というのは、その人に本当に死んでもらいたいと思っている人であり、実際に犯行が行われた時には、
「完璧なアリバイを作っておく」
というわけであり、実行犯としては、
「被害者と面識もなければ、縁もゆかりもない」
という人でなければいけない。
そうなると、確かに、この殺人だけでは、
「被害者と主犯の関係性だけは分かるというものだが、実行犯と被害者、そして主犯とは、縁もゆかりもない、ただの赤の他人だ」
と思わせておけば、
「完全犯罪になる」
というわけだ。
確かに被害者と実行犯は赤の他人だということで捜査は進むだろうが、実行犯と主犯がお互いに、
「赤の他人だ」
ということを示す必要がある。
ただ、この場合は、たぶん、通り一遍の警察の捜査では、
「主犯と実行犯の間を結び付けるものは何もないはずだ」
といえる。
確かに主犯が、
「一番怪しい」
ということであり、その時に鉄壁なアリバイがあるとすれば、警察は、
「別に実行犯がいるのでは?」
と考えることだろう。
だから、主犯の交友関係も調べられるだろうが、よほどのことがない限り、実行犯が疑われることもないだろう。
最初から、
「交換殺人だ」
と決めてかかっていれば、あるいは、実行犯に目がいくかも知れないが、普通であれば、そう簡単に実行犯に目が行くこともないだろう。
何といっても、
「殺人を犯す」
というわけである。
れっきとした動機というものがなければ、いくら実行犯といえども、そう簡単には、犯行に及ばないだろう。
実行犯と、被害者の間に、何らかの接点でもあれば、そこから捜査もできようものだが、接点がないのであれば、捜査は進まない。
万が一、実行犯が犯罪を犯すとすれば、主犯と見込んでいる男に、
「何らかの理由があり、弱みを握られている」
などということで、犯人と実行犯との関係を洗い出そうとするに違いない。
だから、完全犯罪ということにするには、
「実行犯と主犯の関係が表に出ては、致命的な結果を生むかも知れない」
ということになるのだ。
だから、二人は、なるべく犯罪計画を練る時も、
「二人がいるところを誰かに見られたりしない」
ということが必要だろう。
電話なども危険である。
もし、警察が捜索令状などと取って、スマホを没収し、通話履歴などを確認されると、そこから足がつくことだってある。
それなら、まだもっと原始的なことの方がまだマシなのかも知れない。
そして、もう一つ、一番の問題というのは、
「第二の殺人というものが、最初の犯行と、まったく関係のないものだ」
ということにしておかなければいけない。
もし、この二つに関連性が見つかれば、苦労して、実行犯と主犯の関係を見つからないようにしても。この二つの犯罪が、関係あるということになると、おのずと、二人の関係性というものが露呈するということになるのだ。
分かってしまうと、
「交換殺人ではないか?」
ということを匂わせることになる。
何といっても、第一の犯罪で、交友関係を当たった中に、第二の犯行において、
「一番の重要参考人」
というべき人間が、初めてクローズアップされ、二つの事件が結びついてくることになるのだ。
「最初の犯罪と二つ目の犯罪が、結びついているということで、二人の関係が露呈するのか?」
それとも、
「二人の関係が露呈していた時点で、第二の犯行が起こったのか?」
どちらにしても、
「交換殺人」
というのは、その事件が、交換殺人だということがバレてしまうと、小説ではアウトであるということになるのであった。
そういう意味では、
「計画通りにいけば、これほど完全犯罪に近い」
というもので、そのかわり、どこかでほころびが出ると、
「これほど、事件が分かりやすいものはない」
ということになるのだ。
だから、
「現実味がない」
ということになる。
そして、その中で一番、この事件を、
「現実ならしめない」
というのはどういうことなのかというと、
「第一の殺人を行ってしまえば、その時点で、第二の犯罪は、起こりえない」
という心理的な問題ではないだろうか?
というのは、
「第一の犯行では、主犯とすれば、自分の死んでほしい相手が死んでくれて、そして、自分には、完璧なアリバイがある」
ということになる。
しかし、実行犯とすれば、
「殺した相手は、自分にとって縁もゆかりもない相手で、殺しても自分に何のメリットもない」
ということであり、実行犯とすれば、
「第二の犯行で初めて自分にもメリットがあるというわけで、自分としては、まだ犯罪が起こっていない」
というくらいの感覚しかないのだろうが、実際には、今のところ、自分にとっては、
「まわりからは自分が犯人だということが見えていない」
つまりは、警察の捜査の中では、
「石ころのような存在」
と言ってもいいだろう。
だから、最初の実行犯で、次の殺人の主犯とすれば、
「次の殺人のための、予行演習」
というくらいの意識しかないだろう。
ただ、いくら縁もゆかりもないとはいえ、そんな相手を殺してしまったということは消えるわけではない。うしろめたさなどもあるというもので、その分、心理的には、
「複雑な思い」
というものがあるであろう。
そして、
「二つの犯罪がまったく別のものだ」
ということにしなければならないわけで、そうなると、第一の犯罪と第二の犯罪というものは、
「できるだけ、時間を離して実行されるべきであり、できれば、犯行現場も、
「遠ければ遠い方がいい」
ということになるだろう。
幸い警察というのは、
「縄張り意識」
ともいえる、管轄というものがあり、管轄外の刑事が、自分の管轄に入ってきて、勝手に捜査などすると、
「苦情問題」
ということに発展したりする。
テレビドラマなどでは、よくあることで、見ている視聴者のほとんどは、
「警察は何をやっているんだ」
と思っていることだろう。
そんな感覚を植え付けるのだから、それがあるから、ドラマは面白いわけであり、それを、
「市民を守るべき」
しかも、
「税金で飯を食っている連中」
がやっているというのは、市民からすれば、
「笑いごとではない」
といってもいいだろう。
第一の犯罪と第二の犯罪が、
「かなりの時間をおかなければいけない」
ということになると、どういうことが起こってくるかというと、
「心理的なことで、犯罪計画が瓦解していく」
ということであった。
というのは、
「第一の犯行で、自分に完璧なアリバイがある人間とすれば、何も危険を犯して、第二の犯行に及ぶ必要はない」
ということに気づくのだ。
もっとも、これは、
「どちらが、この事件すべての首謀者なのか?」
ということに関係はない。
作品名:無限であるがゆえの可能性 作家名:森本晃次