無限であるがゆえの可能性
ということで、計画の段階で、余裕のないものになっている可能性があるからだ。だから、もしもう一方が、その単純なことに気づけば、
「相手の一人勝ち」
ということになる可能性をはらんでいる。
しかし、実際には、
「交換殺人などはない」
ということは、犯罪計画の間に、計画を立てる人が、そのことに気づくからではないだろうか?
ただ、
「どうしても、殺したい相手がいて。犯罪計画に全神経を集中させ、性格的にも、計画の修正が利かないという人であれば、もうどうすることもできないということになるであろう」
それを考えると、
「交換殺人というのは、向き不向きがあるのだろうが、結局は、実現は不可能であろう」
と考えられるのだ。
交換殺人の一番のデメリットというのは、この犯罪の肝であるところの、
「二人の関係性」
というところから、理論的に考えればすぐに分かることであった。
というのも、二人の関係性が分からないようにして、お互いに疑われないようにするためには、
「主犯には、絶対的なアリバイを作り、実行犯は、絶対に被害者との関係がない人間でないといけない」
ということになるのだ。
そうなると、
「二人が同時に実行犯になる」
ということは物理的に不可能だ。
というのは、
「犯行を同時に行わなければ、最初の実行犯が不利だ」
ということだ。
確かに、練った犯行計画に対してお互いに同意したといっても、それは、
「口約束」
でしかない。
また、約定を取り交わしていたとしても、これは、
「殺人契約の密約」
ということで、法律的に生きるわけではない。
「殺人の契約書など、不法行為であり、そもそも、そんなものがあってはいけない」
そして、
「その契約書がそのまま犯罪の物証ということで、犯人側が表に出せるものではない」
そうなると、最初から作っていないと見るのが当然であろう。
最初に実行犯になれば、
「次は、相手が自分の殺してほしい相手を殺してくれる」
と考えるのは、甘いのだ。
というのは、
「最初の事件で、鉄壁のアリバイを作って、自分は一番安全なところにいるのだから、何も危険を犯して、最初の実行犯のために、自分が殺人を犯す必要などない」
ということである。
相手は、
「約束が違う」
と言い出すだろう。
しかし、実行犯としても、自分が主犯と関係があるということになると、自分が疑われるということになり、どんどん自分の立場が危なくなる。
相手に何かをさせようとしても、自分が実行犯であるということを示さないと、どうしようもない。
そもそも、そんなことをすれば、次に実行犯になってもらいたいと思っている人が主犯で捕まってしまうことになる。
「一人の人間を、実行犯という形の共犯となった以上、二人は一蓮托生であるということに違いはない」
ということであった。
ただ立場としては、
「絶対的な差がある」
ということになり、何もできないということであろう。
これが、
「うまく行けば完全犯罪となるが、実用出来ではない」
といわれる、
「交換殺人」
ということなのだ。
さらに、交換殺人というものは、以前であれば、ゴールがあった。
それは、
「時効」
というものであった。
「殺人罪であれば、15年間、警察に捕まらなければ、時効が成立し、犯罪が露呈しても、逮捕することも、裁判に掛けるということもできなくなる」
ということである。
だから、15年経ってしまえば、二人の関係がバレようがそうしようが関係ないということになるのだ。
それを考えると、
「今は、時効というものはない」
ということになる。
これは、
「凶悪犯」
に限ってのことで、凶悪犯でなければ、従来のような時効は成立する。
しかし、少なくとも殺人に関しては、撤廃されたといってもいいだろう。
ということは、犯人が生きている以上、永遠に罪に問われなくなるという時が訪れるわけではない。
もし、犯人が死んでいたとすれば、その時は、
「被疑者死亡」
ということでの書類送検ということになるだろう。
ただ、そうなると、裁判で明らかにすることはできず、ひょっとすると、殺人の中にでも、
「情状酌量」
というものが認められるような案件であっても、結果として、裁判が行われるわけではないので、
「死んでしまった人を悪くいうのは忍びないが」
とは言いながら、心の中では、
「あいつは、凶悪犯」
というレッテルが貼られたままになるであろう。
それを考えると、
「裁判というのは、刑罰の確定というだけではなく、犯人側の厚生も考えている」
ということになるのかも知れない。
しかし、日本という国は、
「加害者に甘く、被害者には厳しい」
といわれているところがある。
「一番辛いのは、被害者家族の方なのに」
ということで、ほとんどの場合は、殺されてしまった人の家族が、どんな思いでいるか?
ということを、裁判では明らかにしてくれない。
という人もいる。
もっといえば、
「かたき討ち」
というのが法律的に認められていないので、裁判で、本当は極刑にしてほしいと望む被害者家族の気持ちを裏切る形で、例えば、
「懲役10年」
という形になったとすれば、
「犯人は、たったの10年で出てくる」
ということになるのだ。
そして、
「罪を償った」
ということで、娑婆に出て、何事もかったかのように暮らすいうことが、許されるかという葛藤に悩むとになるということである。
殺人事件に限らず、
「被害者の中で永遠に残る傷があるとすれば、それは、すべてにおいて、犯罪としては、卑劣なことだ」
ということになり、
「日本の法律は被害者には厳しい」
ということになる。
ただ、
「加害者にも人権はある」
というのが、民主主義の建前で、しかも、何もしていない加害者の家族が、
「自分の家族に犯罪加害者がいる」
というだけで白い目で見られるのだ。
しかも、警察官などは、
「近親者に、逮捕者がいれば、警察官にはなれない」
ということで、
「警察官を目指している人には、その道が断たれる」
ということになり、実際に警察官の人は、
「辞職しなければいけない」
ということになっている。
それだけ警察官というものが厳しいということになるのだろうが、
「警察官本人には関係のないことなのに、近親者に逮捕者がいるということで、ここまでなるというのは、実に理不尽なことだ」
といえるのではないだろうか。
ただ、犯罪というものは、
「誰も起こしたくて起こす人はいない」
ということも言える。
何かののっぴきならない事情であったり、
「大切な人を奪われた」
ということで、犯罪者は、
「警察が何もしてくれないので、自分が相手に復讐をした」
という場合もあるだろう。
それこそ、
「加害者にも人権やプライバシーがある」
ということになるのだろうが、被害者の家族とすれば、
「そんな生易しいことで、許せるわけはない」
ということになる。
「死んでいった近しい人に、顔向けができない」
と思うのか、それとも、
作品名:無限であるがゆえの可能性 作家名:森本晃次