無限であるがゆえの可能性
勝つ時が稀なだけに、爆発した時の興奮は、
「まるで昨日のことのようだ」
と思うほどになり、勝ち負けの発想は、
「勝った時は、まるで昨日のことのように感じ。負けている時は、負け続けであろうから、次第に負けているという感覚がマヒしてくる」
ということになる。
その方が自分の中で、罪悪感というものが軽減され、
「まるで免罪符を得た」
かのように感じさせるのではないだろうか。
それを考えると、
「なるほど、これなら依存するはずだ」
ということになる。
買い物依存の場合は、代価としての商品が手元に残るが、パチンコは、勝った時だけ、お金が戻ってくる。
しかし、このお金を、
「あぶく銭」
ということですぐに使わず、
「次回のゲーム代」
と思えば、代価のようなものということで、負けても勝ってもそんなに問題視しないということになるだおろう。
交換殺人においてのメリット、いわゆる、
「完全犯罪たる理由」
というのは、まず、
「特定されにくい」
ということになる。
しかも、状況証拠だけではほとんど話にならない。それこそ、
「夢物語を話している」
というだけにしかならないということであり、その理由としては、
「交換殺人など、ドラマか小説でしかありえない」
ということだからである。
実際に、本当の事件として発生したという事実を誰も知らない。だから、誰も本気にはしないし、夢物語としてしか見られないということだ。
だが、実際に成功すれば、これほどの完全犯罪はないといってもいいかも知れない。なぜなら、交換殺人というものを行うメリットとして、
「犯人として疑われるであろう、一番怪しい人物。実際に、殺したいという動機がある人物として犯人が挙がったとしても、実行犯ではないのだから、鉄壁のアリバイを作ってさえいれば、それでいい」
ということになる。
また実行犯が、
「被害者とまったく利害関係のない人物だということになれば、疑われるということもない」
といえるだろう。
つまり、
「実行犯が被害者とはまったく関係なく、また、世間体では、真犯人と実行犯にかかわりがなければ、警察は、実行犯を疑うことはない」
という一種の、三段論法的な発想になるのであった。
このままでは、実行犯は、
「犯罪を犯し損だ」
ということになるわけで、それでは不公平なので、逆に、最初の事件では、実行犯だった人間が、どうしても殺したいという相手を、最初の事件の真犯人が実行犯となって、逆に最初の事件で実行犯をしてくれた人のために、人殺しを行うという、
「襷が掛かった犯罪」
ということになるのであろう。
だから、
「それぞれの犯人に、接点がなければ、完全犯罪が成立する」
ということになるのだ。
しかし、そのための、デメリットも相当にあるといってもいいだろう。
交換殺人というものの肝は、何といっても、
「それぞれに、関係性を見いだせないということが命だ」
ということである。
これが見つかってしまうと、すべてにおいて、それまでつながっていなかった話が一つの線でつながることになり、証拠集めも、警察が調べれば、
「いくらでも、出てくる」
ということになるかも知れない。
犯人は、必死になって、二人の関係性を隠そうとするだろう。
それが肝なのだから、当たり前のことなのだが、それはあくまでも、一点を集中的に見ていくということになる。
しかし、調査する方は、まず全体を見て、そこから絞っていくので、まったく犯人たちとは違うところから攻めてくる。しかも、一つを重点的に見てしまうのであるから、逆から見た場合に見つからないということが往々にしてあるということに気づかないといえるであろう。
それを考えると、
「完全犯罪をもくろもうとすると、一つのアリの巣の穴が、あっという間に巨大な山を潰してしまうような穴になってしまう」
ということだ。
そのデメリットという意味で、一番の盲点は、
「実に簡単で、調べる方からすれば、最初に疑問を持つことすら、分かっていない」
ということである。
しかも、その気づかない部分というのは、
「交わることのない平行線」
のようなもので、結局、
「分かるであろうはずの、肝心なことを見逃してしまうと、一周まわるまで、気づかない」
ということになり、その時には、逮捕されているということになるであろう。
それは、一つは、
「灯台下暗し」
ということであり、まるで石ころのような存在なのかも知れない。
というのも、
「何かを企む人間は、自分がされることに気づかない」
という言葉もあるように、例えば、
「人を殺そうとたくらんでいる人は、自分が誰かから殺されるということを考えていない」
というもので、それだけガードが甘くなるという人もいるだろう。
また、石ころのように、河原に落ちている石ころは、目の前にあっても、
「そこにあって当たり前のものだ」
ということであれば、注意深くまわりを探っていても、そんなどこにでもあるような石ころにまで目がいかないということになるのである
主犯が最初に犯罪計画を考えた時、
「交換殺人というのは、自分たちの関係性がバレると終わりだ」
ということは分かっている。
分かっているからこそ、そこを中心に見るのだが、相手も同じはずだ。
しかし、それ以外の肝心なことを忘れてしまっては、いくら完全犯罪を計画したとしても、それは、
「絵に描いた餅」
でしかないということである。
というのは、
「相手との関連性ばかりを気にしていると、肝心なこと。つまり、心理的な部分で、当たり前のことに気づかれてしまうと。終わりだ」
ということである。
交換殺人というのは、
「最初の殺人では、実行犯であるか、それとも主犯であるか」
ということになるわけで、
「次の犯行では、その逆を演じる」
と考えるから、
「完全犯罪」
ということになるわけで、主犯としては、
「計画通りに事が運べば、完全犯罪が成立する」
と思っていて、計画が完成すると、
「その計画にまい進することに、全神経を集中させる」
ということになるであろう。
もっといえば、
「相手も自分と同じ気持ちで、まい進してくれる」
と、完全に相手を、
「自分の手駒」
としか思っていないだろう。
もちろん、お互いに一番大切なことは、
「それぞれの関係性がバレない」
ということが、犯行後は一番大切なことであることは分かっている。
「犯行完遂のために、かなりの労力を使う」
ということは当然のことだが、他の犯罪よりも、
「犯行後の行動が、一番大変だ」
というのも、この交換殺人というものの難しいところである。
何といっても、大きな問題として考えられるのは、
「きっと犯行計画を練っている時には、このことは、絶対に思いつかないだろう」
と思えることで、それだけに、
「計画が完成し、実行段階に入ると、余計に、気づくことはないだろう」
ともいえる。
なぜなら、犯行自体は、
「待ったなし」
作品名:無限であるがゆえの可能性 作家名:森本晃次