無限であるがゆえの可能性
にされてしまうとたまらないということである。
そんなバブルの時代において、
「父親の威厳」
というものも次第に衰えてきた。時代が、それまでの、
「会社員というと、時間から時間の定時出勤」
という時代ではなくなってきたのだ。
それまでは、給料をそのままもらっているだけだったので、贅沢というものもできなかった。
そもそも、時代が贅沢を求めない時代で、確かに、いろいろなものが開発され、便利なものが出来上がってきたので、
「月賦」
という今でいう、
「分割払い」
というもので、賄ってきたので、何とか給料内で抑えてきた。
だから、気持ちとしては、月賦というものがあるだけで、
「贅沢をしている」
という気持ちになっていたのだろう。
しかし、生活が落ち着いてきて、また、当時は高価だった電化製品も、
「大量生産」
というものができるようになり、需要も増えれば、当然、価格も下がるというものである。
そして、大量生産をするには、工場をどんどん広げ、そして、人を雇うことをしなければ、回らなくなるといってもいいだろう。
だから、そのおかげで、雇用問題も、一気に解決し、さらに、貿易も盛んになってくると、経済発展も目覚ましいものとなることであろう。
それを考えると、今の時代において、
「会社で働く父親」
というものが、家庭に居場所がなくなってくるというのも、分かるというものである。
この時代になると、主婦も子供も、自分の世界を作るようになってくる。
主婦とすれば、近所の奥様付き合いというのもある。
特に子供のこととなると、
「自分の子供が一番優秀だ」
などと思うようになってくる。
時期も同じくして、当時の子供の世界でも、
「受験戦争」
というものが、小学生にまで飛び火してくる時代でもあった。
社会の発展から、それまでは、
「海外の真似をする」
ということで、経済を回してきたのが日本で、
「真似をさせると、日本に敵うものはない」
といわれたほどであったが、時代が進んで、
「三種の陣日」
あるいは、
「新三種の神器」
などといわれる電化製品が出てくるようになると、今度は、
「日本独自のものを作る」
ということが言われるようになってきた。
特に、自動車産業などの発展が、当時としては、目覚ましく、いろいろなところに工場ができて、そこで、いろいろ開発されるようになった。
のちの時代に、
「貿易摩擦」
などという禍根を残すことにはなったが、当時の経済成長は、
「奇跡」
とも言われたほどであった。
そのため、教育の問題が政府としては急務だった。
戦後教育で、まだまだ海外に匹敵するほどの開発者が生まれる環境ではなかったということから、
「まずは、国民の学力の底上げ」
というのが、叫ばれるようになってきた。
だから、
「詰込み教育」
といわれるような、少し強引な教育方針を打ち出すことになり、そのうちに、
「ついてこれない者は、捨てていく」
というような教育現場になってきたのだ。
「落ちこぼれ」
などという言葉が流行り、落ちこぼれた連中は、不良となり、学校で暴れまわったり、
「警察沙汰」
になったりして、退学を余儀なくされ、結局、チンピラになったり、やくざの手下になったりという時代になってきたのだ。
その一方、成績のいい生徒は、どんどんいい学校に行かせて、さらに、その中で、
「ふるいにかける」
ということになる。
ふるいに掛けられた生徒たちは、落とされると、その末路は同じだった。
「敗者復活戦」
というものもなく、一度落ちると、元には戻れない。
そんな時代になっていたのだ。
家族もバラバラ、学校でも、差別が平然と行われる。
学校すべてがどうだとは言わないが、
「優秀な生徒に対しては、その成果を認めるが、成績の悪い生徒は、先生から切り捨てられる」
だから、落ちこぼれた生徒が学校で暴れまくり、教室のガラスが半分以上割られているというような学校がたくさんあったのだ。
不良というものは、情け容赦がないが、それを作り出したのは社会である。
卒業式の帰りなどは、先生たちが、一斉に恐れていたことだろう。
「お礼参り」
と称し、先生に恨みのある者が、集団で襲撃したりということも珍しくもなかった。
確かにやりすぎだが、生徒の気持ちも分からなくもない。
だが、逆に、
「先生としても、境域委員会であったり、文部省の指針というものを守らないといけない」
ということで、
「どうしようもなかった」
といわれる時代である。
「じゃあ、どうすればよかったのか、今でも分かる人はいないだろう」
といえる。
「いや、今だからこそ分からない」
といってもいいだろう。
だから、教育というのが、その後の時代になって、
「ゆとり教育」
という時代になってきた。
もう、教育水準も、ある程度まで上がってきたということと、さらに、
「それに対して教育現場としては、諸問題が乱立してきて、そちらの方の解決が問題だ」
ということであっただろう。
特に、
「いじめ問題」
「不登校問題」
などがその際たる例で、
「いじめ問題というのは、それまでの不良問題と似たところがあるが、それ以上に、その内容が卑劣化している」
というところが問題だった。
昔から、
「苛め」
というものがなかったわけではない。
しかし、昔の苛めは、
「虐める側にも、虐められる側にも、それなりの理由があり、いずれは、分かり合えるところがある」
ということで、それほど大きな問題になったりはしなかった。
しかし、
「いじめ問題」
というものが叫ばれるようになると、
「もう、苛めに大義名分というものはなく、その理由もハッキリとしない」
ということになる。
苛めをする人にその理由を聞いても、
「虐めたいから虐める」
としか答えが返ってこない。
そして、その虐める相手も、かくたる理由があるわけではない。
「ただむかつくから」
というのが、たいていの理由であろう。
たくさんの人間で一人の人間を虐める。そしてその内容も、言語道断といってもいいくらいにひどいものだってあるのだ。
そのうちに、
「自殺をする生徒」
というのも出てきて、収拾がつかなくなってきていたのである。
先生も、恐ろしくて口を出せない。だから、先生も見て見ぬふりをして、上には言わない。
もし、教頭や校長がそのことを知ったとしても、
「教育委員会などに知れたら、自分たちが責任を取らないといけない」
ということで、逆に、教育委員会にバレないように、学校側が処理できるわけではないのに、
「臭いものに蓋だけをする」
ということになるのであった。
それを考えれば、
「学校というところは、無政府状態」
といってもいいかも知れない。
そうなると、
「学校に行くことができない」
という、
「不登校の生徒」
が出てくることになる。
「前は、登校拒否といっていたのに」
ということで、若干、意味も変わってくるのだった。
「学校に行きたくない」
というのが、一番の理由なのだろうが、精神を病んでしまい、
作品名:無限であるがゆえの可能性 作家名:森本晃次