無限であるがゆえの可能性
そのジャンルは、
「広義の意味でのミステリー」
といってもよく、
「猟奇殺人」
などというジャンルから、
「ホラー」
や、
「オカルト」
といったジャンルにまで、食指を伸ばしていたようで、彼曰く、
「推理小説という単純なジャンルだけを見ていると、見えてくるものも見えてこないからな」
というのであった。
その発想は、島村にはなく、
「まるで目からうろこが落ちたかのような気がするくらいだった」
というくらいのものであった。
そのおかげか、完全に、友達に主導権を握られているかのように思うのだった。
特に、
「猟奇殺人」
と呼ばれるようなものは、中学時代から嫌いで、
「友達も確か嫌いだったはずなんだけどな」
と思っていたのに、
「どうした風の吹き回しなのだろう?」
と感じるようになった。
好き嫌いというものは、それぞれ、誰にでもあるというもので、
「ホラーやオカルトというのも、そんな猟奇犯罪にかかわってくるから、嫌いだったのだ」
と思っていた。
島村は自分の中で、
「反則だ」
と思っていたのだ。
前述の、
「ノックスの十戒」
というもののように、
「探偵小説には、タブーといわれるものが多数存在する」
ということで、
「読者との間に、隠し事があったり、欺くというような行為があったりすれば、それは、すべてが違反だ」
とまで、島村は思っていた。
そういう意味で、
「怪奇」
であったり、
「超常現象」
というものは、トリックの発想というものには、反則ではないかというように見えるということは、友達も同じはずだった。
しかし、そんな友達が、
「どうして、ホラーやオカルトに走るような行為に至ったのか?」
ということを知りたいと感じていたのだった。
それが、島村にとって、唯一の課題だと思っていたのだ。
島村が、交換殺人に興味を持ったのは、やはり、
「本当に、不可能なのか?」
と感じたからだった。
実際に、本などを見ていると、
「なるほど」
と納得できるだけの内容が乗っている。
「ミステリ小説には存在するが、実際には、なかなか難しい」
ということと、その理由として、
「ハイリスクハイリターン」
ということで、
「成功すれば完全犯罪となるが、成功する可能性はほぼないのではないか?」
ということを書かれているのを見て、さすがに納得しないわけにはいかない。
だが、それも
「理屈の上で、精神的に不可能であることが分かる」
ということからであって、実際に本音とすれば、
「理屈はそうでも、本当に不可能なのだろうか?」
と、今度は自分の性格が、
「不可能を可能にさせてみたい」
という、天邪鬼な性格が、そう思わせるのであった。
考えてみれば、
「そんな不可能を可能にできないか?」
というのを考えるのが、そもそも、このサークル活動の本心ではないだろうか?
そこで考えてもできなければ、本当の意味で自分が納得するということになる。
確かに本に書かれていたりしたことが、納得いくことであっても、自分の頭で、
「本当にそうなのだろうか?」
として、再考してからこそ、それでもだめであれば、
「自分で納得した」
ということになる。
高校時代までの自分は、まわりの意見に流されるかのように、相手の言うことが納得できることであれば、信じるしかないということで、それ以上を考えるということはなかったのだ。
それを思うと、大学生になってから、少し考え方を広げることができるようになった。
「小学生の頃まではできていたような気がするんだけどな」
と今から思えば感じるのだ。
だが、それを中学高校時代に感じたことはない。
つまり、
「まわりから流されるというような考え方は、古いということではあるが、決して悪いことだという感覚ではないような気がしていたのだ」
ということであった。
それとも、中学高校時代では、
「本や人のいうことが自分で納得さえできれば、それが正しいことだということで、納得していた」
ということであり、
「小学生の頃の方が、よほどいろいろ考えていた」
ということすら忘れていたということであった。
しかし、実際に大学生になると、小学生の頃のことを思い出した。
そうなると、
「小学生の頃の方が、中学高校時代に比べて、まるで昨日のことのように感じさせられる」
という感覚になったのであった。
それだけ、中学高校時代では、
「自分で何かを考えたり、感じたりしなくなっていた」
ということであり、その原因が、
「受験」
というものにあったようだ。
受験勉強をしなければいけないと考えるようになると、自分の頭をそれ以外のことで使うというのは、時間的にも、能力的にも、
「もったいない」
と感じていた。
それは、
「時間的にも、能力的にも、絶対的な限界というものがあるからだ」
と考えていたのだろう。
つまり、
「限られた時間において、不可能を可能にするだけの能力を持ち合わせていない」
ということから、
「気持ちに余裕など持てるはずがない」
ということで、それがいかに、自分を力づけるというのかということを分かっていないのであった。
だから、
「受験というのは、プレッシャーでしかなく、どうして、そんなものが存在しているんだ?」
と思うようになったのだった。
ただ、小学生の頃、テストは嫌いではなかった。
自分で勉強した成果が、数字となって現れるのだ。成績が悪ければ、
「もう少し頑張れ」
ということで、成績がよければ、
「もっと高みを見てもいいのではないか?」
と考えられるという、自分にとっての指針であると思うと、
「本来の試験というのは、プレッシャーを感じるものではない」
と考えられる。
「余裕がない」
というのは、それが、
「入学試験」
というものであり、勉強したいと思っていたとしても、自分のレベルで勉強したい学校に行けるかどうか、試験されるということになるのだ。
「その日、体調が悪い」
ということもあるだろう。
自分が重点的に勉強したところではないところが出たりすれば、お手上げということもありえる。それこそ、
「ふたを開けてみないと分からない」
ということになるのだ。
入学試験というものが、どういうものなのかということは、受けたことがある人間でなければ分からない。
試験を出す方だって、難しくしても、簡単にしても同じである。
これが、
「資格試験」
というものとの違いだといってもいいだろう。
「資格試験」
というものは、ほとんどの場合、
「定員が決まっているわけではなく、一定の成績を治めさえすれば、合格ということになる」
というもので、逆に、
「入学試験」
あるいは、
「入社試験」
というものは、
「定員というものが決まっていて、応募者数が定員よりも多ければ、試験というもので、ふるいにかける」
ということになるのだ。
だから、合格点というものは存在しない。平均点が低ければ、合格点は下がるだろうし、平均点が高ければ、合格点は上がる。
資格試験や検定試験では、
「自己採点」
作品名:無限であるがゆえの可能性 作家名:森本晃次