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無限であるがゆえの可能性

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「そのやり方は、ある程度決まっている」
 といえるだろう。
 しかし、そのことを誰が証明するというのか、正直、
「交換殺人というものを思いついた人は、実に賢く、天才だ」
 といってもいいのではないだろうか?
 実際にその通りにやれば、完全犯罪が成立するという、マニュアルを作り上げたのであり、それが完成されるかどうかは、実行者の手腕によるということである。
 そんな計画がうまくいくかというのは、ドラマでいえば、
「監督と演者の力」
 といってもいいだろう。
 脚本家とプロデューサは、その設計図についてを表したというだけで、実際に、それを表現するというのは、
「監督」
 であり、
「演者」
 の力だった。
 ドラマ作成において、脚本家というのは、小説家のように、
「すべてを自分で書く必要はない」
 というのは、実際に、映像作品に仕上げるのは、監督と演者なのだ。
 脚本家は、販売までの材料を作るだけで、
「設計図にも至っていない」
 というものなのかも知れない。
 だから、
「小説の場合は、描写もセリフもすべて、小説家が考える」
 ということになり、だからこそ、読者が勝手に想像し、楽しむものである。
「しかし、シナリオというものは、最終形態として、映像作品ということになるのだ」
 つまりは、
「脚本家が、セリフ以外の、描写まで、事細かく書いてしまう」
 ということになれば、
「せっかくの、演者の個性であったり、映像作品の現場における、すべてを取り仕切る監督のオリジナリティが発揮できない」
 ということになるのだ。
 それを考えると、
「脚本家は、本当の影の力持ちでしかない」
 ということになるのだ。
 それを考えると、
「ドラマというものは、すでに、映像ということで、視聴者に対して、すべての情報を与えているということになるので、そのすべてを作者一人が請け負う小説と違って、すべてが分業制ということになり、小説家としては、何か物足りない」
 というような気持ちになるということではないだろうか?
 そういう意味で、
「原作のある脚本を書く方が、脚本家オリジナルの作品を書くよりも、難しいのではないか?」
 ということになるのだ。

                 交換殺人詳細計画

 ある青年が、交換殺人というものを企んでいた。
 名前を、
「島村康弘」
 という。
 この男は、本当は殺人などを犯さなければいけないという、
「れっきとした動機」
 というものはない。
 ただ、大学時代から、ミステリーに興味があり、犯罪研究を独自にしていた。
 大学を卒業してからは、普通に会社に就職し、その会社では、
「犯罪研究などをしている」
 などというと、まわりが誰も寄ってこないということで、このことは、しばらく誰にも言わないでいた。
 おかげで会社でも友達が結構増えて、犯罪研究などしなくても、それなりに、
「若い世代の仲間と楽しくできるんだ」
 ということに、いまさらながらに気づき、
「大学時代よりも、結構今の方が楽しいじゃないか」
 と思うようになったのだ。
 高校時代から、いや、中学時代からだったか、とにかく暗い青年で、この暗さというのは、
「自分だけのことで、他の人にはないんだ」
 という、
「自分の独自性」
 というものを、よくも悪くも持っていたのであった。
 中学時代は、まだ少しは明るかったかも知れない。しかし、高校生になると、真剣に暗さが半端なかったのだ。
 それは、自分でも、
「どこが変わった?」
 ということを考えても分かることではなかった。
 なぜなら、
「実際に何かが変わったわけではなく、変わったのは、周りだったことだ」
 中学時代までは、皆義務教育なので、ある程度平等だった。
 しかし、高校生になると、その学力が、平均化されていった。
 なぜなら、中学から高校に入学する際に、それぞれ学校にランクがあり、そのランクに遭う学校に行くように、入学試験というものを突破する必要がある。
 今までと変わりがないというような。
「中の中」
 レベルの、標準的な学校に進んだのであれば、それは別に問題はないのであるが、レベルの高い学校に進めばどうなるか?
 ということである。
 今まで中学では、成績がトップクラスに近いくらいの生徒は、自然と教師からも、贔屓されるようになり、自分でも、成績がよいということで、幾分かのうぬぼれのようなものがあったことだろう。
 それを考えると、
「高校に入っても、同じようなレベルを想像すると、それは大きな間違いだ」
 ということになる。
 なぜなら、自分が進んだのは、進学校である。
 つまり。
「自分と同等、あるいは、それ以上の生徒がよりすぐられた」
 というわけだから、入試の時、
「五分五分」
 といわれて、先生から、
「ランクをもう一つくらい下げた方がいい」
 といわれたところを無理矢理に受けて、合格すれば、
「精神的なことと、実際のこととのギャップに悩まされる」
 ということになるのだ。
 確かに、合格するところまでは、えらかったといえるだろう。
 しかし、合格したとしても、それは、
「ランク的にギリギリのところでの合格」
 ということで、実質的なランクは、かなり下の方なのかも知れない。
 しかも、本人は、
「自分の実力で、先生がやめておけばいい」
 といったところに合格しているのだ。
「自惚れてしまった」
 としても、それは無理もないことだろう。
 先生も、
「自分の生徒が進学校に入学した」
 ということで、鼻が高いというもので、生徒本人のことを真剣に考えていなければ、それらのギャップを見逃してしまうことになるだろう。
 中学の先生は、
「卒業してしまえば、あとは高校に任せる」
 という気持ちがあるのか、それとも、
「後から、どんどん新しい生徒が入ってくる」
 ということで、目が離せなくなってしまう。
 ということになるだろう。
 島村も、そのたぐいの生徒だったのだ。
 成績は、高校に入学すると、
「中の下」
 くらいになっていた。
「あれ?」
 とは思ったが、その本当の理由を知るわけではなかった。
 冷静に考えれば分かりそうなものだが、そのことに気づいたのは、大学に入学してからのことだった。
 これが、
「下の中」
 くらいの成績であれば、
「授業にもついていけず、しかも、学校は、成績の悪い生徒を、どんどん落ちこぼれとして、見捨てていくようなところであった」
 といえるであろう。
 進学校の中には、成績の悪い生徒でも、決して見捨てないというようなところもあるが、島村が入学した学校は、そうではなかった。
 それでも、何とか卒業までついていき、その分、さらに暗くなってしまうという、
「代償」
 を払いながら、大学受験にもこぎつけた。
 さすがにその時は、
「無理なことはしない」
 ということだけは身に染みていたので、
「成績からのランクをかなり下げたところでの、入学試験を受けたところで、その中でも第一志望に合格できたということで、晴れて大学生になれたのだ」
 そもそもが進学校だったので、ランクを下げたとしても、
「世間一般的なレベルの大学」
 に入学することができた。