無限であるがゆえの可能性
「ここで、名前を売っておけば、その時に損をしても、いずれは、儲けとして戻ってくる」
ということで、これを、
「投資」
と考え、
「損して得取れ」
という言葉を実践している人たちである。
ただ、それも、
「人助け」
ということになる以上、悪いことではない。
「動機としては、若干、不純だ」
といてもいいだろうが、だからと言って、
「それを悪いことだ」
と糾弾するということはできないであろう。
しかし、個人でやる人には、
「売名行為」
のような、あからさまなメリットはない。
それこそ、
「損はするが、得をすることはない」
ということになるかも知れない。
「じゃあ、どうして、特にもならないことをするというのだ?」
と考えると、そこは、
「明日は我が身」
と考えるからであろう。
「いつどこで何が起こるか分からない」
ということであれば、自分も被災することになるだろう。
そうなると、
「死んでしまわなかった場合、不自由な暮らしを余儀なくされる。食べ物も満足になく、住むところもなく、一人ぼっちで死んでいく」
ということを考えると、
「援助してくれる人がどれほどありがたいか?」
と思うのだ。
だから、ここで考える見返りというのは、
「同じ立場になる可能性は非常に高い」
ということで、
「殺人事件の被害者家族とを比較する」
ということになると、
「これだけ毎日のように発生する殺人事件に、今まで遭遇していないのだから、自分が彼らの立場になることはまれだろうから、援助しても、その見返りのようなことはないだろう」
ということになる。
そう思うと、
「同情はするが、援助はしない」
ということで、
「同情するなら金をくれ」
という昔のトレンディドラマのあのセリフは、
「そのことを引き食った言葉」
ということが言えるのではないだろうか。
だから、被害者家族に同情は集まるが、本当の支援はない。そうなると、
「日本は、加害者家族には厳しい」
といわれるが、それだけではなく、
「被害者家族に対しても、その行動と心情が一致していないことで、中途半端な状況になるのだ」
といえるだろう。
結局、人間というのは、
「最後は自分がかわいい」
ということであり、
「口ではかわいそうだといっておきながら、何の援助もしない」
ということになる。
唯一、災害などの場合の被災者には、援助を惜しまないというところが、まだマシなところだといえるだろう。
「人間にも、真っ赤な血が流れている」
というのは、あくまでも、この場合に言えることであり。逆に人間というのは、
「打算で動く動物だ」
ということが言えるのは、この、
「被災者に対しての援助を惜しまない」
ということであろう。
それが、企業における、
「売名行為的な援助」
であったり、個人の場合は、
「明日は我が身」
という恐怖から、今のうちに助けておけば、ことわざにある、
「情けは人のためならず」
ということになるということであろう。
「情けを掛けておくと、それは、その人のためだけではなく、いずれは、自分にもいい報いとして返ってくる」
ということになるのである。
それが、
「被害者家族に対しての考え」
との違いということになるだろう。
しかし、それでも、被害者家族はまだ、
「同情してくれる」
というだけでも、マシではないだろうか。
実際には、同情どころか、加害者家族は、白い目で見られ、下手をすれば、
「家族の離散」
ということもあるくらい、世間から、
「奥さんは奥さん、子供は子供」
というそれぞれの世界で、誹謗中傷を受けたり、実際に差別や、いじめに繋がったりするだろう。
特に、主婦界隈であったり、子供の世界というと、
「容赦がない」
といってもいい。
会社組織などを経験していれば、
「社会的にソーシャルな人との付き合いというのも分かる」
というもので、
「どこまでが許されるのかということが分かる」
というものだ。
しかし、実際には、
「歯止めの利かない世界」
というのは、
誹謗中傷といえる、言葉の暴力や、ナイフで突き刺されるような鋭い視線」
というものがあったり、子供の世界のように、
「理不尽な苛め」
というのは、
「そのターゲットを絶えず虐める方は探しているので、こういう、
「苛めに値する」
と思った相手には容赦しない。
特に、
「相手は殺人者の息子ではないか?」
と思うと、
「あいつを虐めるのは、正義なんだ」
という免罪符を与えてしまうことになるからだ。
だからと言って、大人がいじめられていることもを何とかできるわけでもなく、結局、見て見ぬふりをすることで、加害者の子供は、
「俺は何もしていないのに」
という思いがあることで、
「理不尽というものをどうして、自分が味遭わねばならないのか?」
ということになるわけで、
「どうすることもできない」
ということになってしまうのであった。
それを考えると、
「どうすることもできないで、大人になっていく」
と考えると、今度はその子が、
「復讐に燃えることになる」
ということを、
「誰も気づかないのだろうか?」
と思えそうなのだが、本当に誰も気づいていないのだろう。
後になれば、
「どうして、誰も気づかなかった?」
と思うようなことはたくさんあり、たとえば、
「バブルが弾けた後」
皆どうして、
「こんな簡単なことに気づかなかったのか?」
ということになるのである。
「知っていたが、パニックになるのを恐れて黙っていた?」
とも考えられるが、本当のところは誰にも分からない。
ただ、知っていて何も言わないというのは、
「知らなかった」
ということと同じであり、下手をすれば、
「もっとひどい」
といえるのではないだろうか?
交換殺人というものを計画する時、
「最初から交換殺人をもくろもう」
と考える人はなかなかいないだろう。
計画するとしても、それは、なかなか実行できるものではなかったり、実際の犯罪というものの中で、
「普通聞いたことないよな」
と思うと、その現実性というものを、どうしても、疑ってしまう。
しかし、
「可能性としてはないわけではないし、成功すれば、完全犯罪だ」
と思う人もいるだろう。
自分に対して。
「よほどの自信を持っている」
という人か、
「一か八か」
であっても、
「とにかく、相手を殺さないことには埒が明かない」
と考えた時、
「前しか見えない」
という猪突猛進の人でないと、あり得ないことなのかも知れない。
というのも、
「犯罪を計画し、その通りにできたとして、それで安心だ」
と思える人がどれだけいるだろう。
「相手を殺さないと安心できない」
という精神状態の時は、
「とにかく、死んでもらわないとどうしようもない」
ということになり、
「前しか見えない」
というのも、無理もないことであろう。
しかし、自分で計画し、その通りにできたとすれば、かなりの安心感を得られることになるのではないだろうか。
というのも、そこには、
「達成感」
作品名:無限であるがゆえの可能性 作家名:森本晃次