無限であるがゆえの可能性
だから、少なくとも、それぞれが連続殺人だと思わせると、二人の関係が露呈してしまい、その時点で、
「完全犯罪ではない」
ということになる。
そして、これはあくまでも、理論上の問題であり、
「犯罪に限ったことではなく、何かを計画したり、開発したりすると、その完遂までには、想定外の出来事がいくらでも出てくる」
というものだ。
そんなものがどんどん出てくると、結果として、
「物事は計画通りにいかない」
ということになり、
「下手に計画が完璧であればあるほど、思わぬところがほころんでしまい、最初から、うまくいかない場合の対処をしていないと、それこそ、脆弱な計画ということになり、あっという間に、計画が暴露されてしまい、単純な犯罪と化してしまうということになるのではないだろうか?」
それを考えると、
「やはり、世の中に完全犯罪なるものはありえない」
ということになるのであろう。
犯罪計画というものが、どのようなものなのかということを考えていると、
「誰もが、完全犯罪をもくろむものだが、少しずつその計画が瓦解していき、次第に破綻に近づいていくのだろうが、その犯行をどこまで自分の中で完遂させないと、乗り掛かった舟というものが沈んでいくだけとなるので、結果やめられなくなってしまう」
ということになるのではないだろうか。
もちろん、
「誰かを殺したい」
あるいは、
「死んでもらわなければいけない」
という切羽詰まった事情であったり、その人が生きていることが、自分の存在を否定してしまいかねないほどの、恨みを持った人であるということを考えると、第一に思うことは、
「その人間の抹殺が第一条件で、自分が助かるというのは、二の次だ」
と思ったとすると、最悪、
「相手を殺して、自分も死ぬ」
ということもありなのかも知れない。
ただ、それはあくまでも、最悪ということであり、なるべくなら、死にたくなどないというものだ。
「あんなクズのために、どうして自分が死ななければならないのか?」
とも思うからだ。
相手も死んで、自分も死ぬというのは、結果としては、対等であり、殺したい相手が、差し違えるにふさわしい相手なのかということになるのだ。
殺したいだけの相手が、
「差し違えるほどの人間であるわけもない」
ということであり、
「みずみす、自分も死ななければならないという理不尽なことを甘んじて受け入れる必要などない」
といえるであろう。
それを考えると、
「完全犯罪を目指す」
ということは、
「自分が、殺したい相手のために差し違えるような破滅をしたくない」
という思いがあるからに違いないのだ。
交換殺人の計画
交換殺人を計画した人が最初に考えたのは、
「自分が殺したい相手と、自分が差し違えてもいいのだろうか?」
ということであった。
もちろん、前述のように、自分が死ぬということが、
「相手を殺す」
ということと天秤に架けた時、どっちが重たいかと考えると、当然のごとく、自分の破滅は、この男のためにはありえない。
と感じたのだ。
昔であれば、
「仇討ちということもあった時代」
というものを考えると、
「やはり今の日本は、被害者側の近親者への配慮に欠ける」
としか思えない状況だと、被害者側の近親者は思うことだろう。
何といっても、
「人を殺しておいて、捕まったとして、その人が罪に問われたとしても、極刑にならないということなどありえない」
と思うことだろう。
しかし、それは、ひょっとすると、
「一点だけしか見ていないから、そう思うのだ」
ということなのかも知れない。
殺人を犯した人というのは、当然のごとく、殺意があってのことであれば、それは、
「れっきとした動機」
というものがあるに決まっているからだ。
それがどのようなものなのか分からない。
ひょっとすると、
「殺されても仕方がない」
というような事情があるのかも知れない。
たとえば、殺された人は、詐欺師であり、犯人は、
「その人を殺さないと、自分が破滅する」
ということになるのは、明らかだとすると、人間というもの、
「一つのことを悪く考え始めると、どんどん、自分ではどうすることもできなくなってしまい、結局、追い詰められて、相手を殺さなければ、自分が死ぬしかない」
というところまでくれば、
「相手を殺してでも」
ということになるだろう。
そうなると、
「相手を殺して、差し違える」
ということは考えにくい。
もちろん、
「自分をここまで追い詰めた相手もろとも、自分も差し違えて死のう」
と思うのは当たり前のことだといえるのではないだろうか。
だが、そこまで考えると、またしても、相手に対しての憎しみが湧いてきて、
「あんなクズのために、自分を犠牲にするのはありえない」
と思うから、殺人計画というものを練ることになるのだろう。
そして、殺した相手が、被害者となり、自分が加害者として捕まることになったのだ。
そうなると、問題は、
「被害者の家族」
ということである。
これが、被害者の家族であれば、
「あそこは、家族が殺されてしまってかわいそうだわ」
といって、同情を集めることはできるだろう。
しかし、だからと言って、被害者家族に必要なだけの援助が得られるというわけではない。
「同情なんか、誰にだってできるのだ」
ということで、そういえば、昔のドラマの、
「一世を風靡したセリフ」
ということで、
「同情するなら金をくれ」
という言葉があったが、まさにその通りだ。
「本当に気の毒だ」
とは、口では何とでもいえるというもので、
「被害者家族に対して、本当に、金を寄付できるか?」
といっても、誰がそんなことをするであろうか?
これが、
「自然災害の被災者」
ということになれば、誰もがこぞって寄付したりするというものだ。
これは、
「人間の心理」
というものが働いているのではないだろうか?
というのは、
「そもそも、人間は、見返りというものを求める」
ということである。
逆に、
「見返りを求めるから、人間らしい」
といえるのではないだろうか?
殺人事件などというのは、確かに毎日のように起こっていることであるが、実際の殺人事件というものが、本当に起こっているのかどうか?
ということになると、
「自分の本当の近親者で、加害者も被害者もいない」
という人が、そのほとんどだということではないか。
だから、
「気の毒だ」
とは思いながらも、実感がないのだ。
しかし、自然災害というのは、そうではない。
「確かに、自然災害を味わったことのない」
という人も多いだろうが、実際に、
「被災した」
という人は少なくはない。
そういう人は、
「以前に巻き込まれた自然災害の時、ボランティアの人であったり、一般の人から寄付を受けて助けられた」
という思いから、率先して助けようとする。
それが人情というものであろう。
ただ、中には、
「売名行為」
という人や企業もあるだろう。
確かにボランティアではあるが、
作品名:無限であるがゆえの可能性 作家名:森本晃次