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天才のベストセラー小説

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「その言葉を免罪符にして、母親は自分の正当性を訴えようとするのは、
「卑怯である」
 と子供だから気づかないと思っているとすれば、それは、子供を舐めているのであり、もっといえば、
「自分から、子供を遠ざけている」
 といえるかも知れない。
「自分の思い通りに操りたい」
 という感情がある反面、子供が怖いのか、自分から、距離を取って、そのうえでマウントを取ろうとするのだ。
 そうなると、見えてくるのは、
「矛盾」
 と
「理不尽さ」
 ということになるのであろう。
 子供というものが、どういうものなのか?
 ということを考えると、
「最終的な優先順位を間違えると、自分がマウントをとれなくなる」
 ということで、子供に恐怖を感じるのだろう。
「引きこもられる」
 あるいは、
「暴力を振るわれる」
 などということになれば、完全に、親はどうすることもできない。
「部屋の前に、食事を置いておいて、ある程度の時間が来れば。それを下げに行く」
 というような、情けないことしかできない。
 しかし、それは自業自得であり、小さい頃から、子供の気持ちを考えていなかったりすると、結局は、
「子供の気持ちを考える機会はいくらでもあったはずなのに、その機会をことごとく失ってしまった」
 とすれば、
「それは親の責任」
 ということであり。
「親子は、交わることのできない平行線」
 となるだろう。
 テレビドラマなどでは、
「親子の絆は、何よりも強い」
 というようなドラマを作るのが多かった。
 特に、昭和の頃は、青春ものであったり。家族団欒の光景が、当たり前のようであった。
 しかし、時代が、それを許さない。
 青春時代の青少年の物語だとすると、昭和の、
「スポーツ根性もの」
 というのはありえない。
 青春ものなどにしようものなら、
「まず視聴率は得られないだろう」
 視聴者からすれば、
「そんな甘い戯言のような時代があるわけはない」
 ということになる。
 昭和の頃も、
「不良問題」
 であったり、
「登校拒否」
「いじめ問題」
 などがなかったわけではないが、ある程度片付いていた。
「苛め」
 というのも、そこまでひどいものではなく、
「中学生でいじめられていたとすれば、高校生になった頃には、自然とその子に対しての苛めはなくなり、逆に仲良くなったりということが多かっただろう」
 それは、虐められる側も、
「自分に悪いところがある」
 ということが分かるからであるが、
「平成から、今に至るまでの苛めというのは、もっと陰湿で、虐める側としても、何が原因でいじめているのか分からないというようなことが平気であったりしているのだ」
 苛めている側が分からないのだから、そりゃあ、どうすることもできないだろう。
 虐められている側も、相手がそんな理不尽なことだから、自分がいじめられる理由が分かるわけはない。
 何といっても、相手に理由が分からないわけだからである。
 ただ、確かに、
「理由はないが、無性に腹が立つやつはいる」
 というのは、今も昔の同じだろうが、それでも、理由が分かってくるようにいなれば、苛めも自然となくなるだろう。
 昭和の頃は分かっていたのだろうが、それ以降は、どんどん分からなくなってきたのか、それとも、
「理由など、そもそも関係ない」
 ということなのか、
 つまりは、
「相手を虐めるということが、自分たちの正義だ」
 と勝手に思っているのではないだろうか?
 不良問題というのは、そもそもが、教育現場側が作り出したものだった。
 というのは、学校教育というものが、
「戦後、日本が復興して、世界に乗り出していくために、子供の間に、世界に通用うする、生徒の平均学歴を上げる」
 ということが、
「至上命令」
 のようなものであった。
 昭和の、
「高度成長期」
 というものは、
「スポーツ根性もの」
 であったり、
「青春ものの学園ドラマ」
 が多かったりした。
「努力は必ず報われる」
 あるいは、
「スポーツを奨励することで、スポーツ界も、世界に通用するレベルの選手を作り上げる」
 などということが行われていた。
 特に、当時は、
「野球」
 などというスポーツがそうだった。
「プロ」
 と呼ばれる競技は、基本的に、野球しかなく、サッカーの、
「Jリーグ」
 などというものも結成されていなかった。
 だから、スポーツものというと、確かに、テニス、バレーなどのように、マンガになってはいたが、圧倒的なものは、野球だっただろう。
 特に、
「高校野球」
 というものは、その頂点のようで、
「甲子園」
 というのが、
「野球の聖地」
 となっていた。
 だから、高校野球をテーマにしたものも多く、春と夏の甲子園というと、皆が注目するものになっていた。
 だから、皆、
「甲子園に出場するために一生懸命だ」
 ということである。
 しかし、出場だけではダメで、読者とすれば、
「全国制覇」
 を期待して読んでいる。
 当然のごとく、
「優勝」
 という結末は決まっていて。そのためにその過程でいろいろな人間模様であったり、気持ちの中の葛藤というものがあったりして、それが、裏でどのようなことをやっているか?
 ということは、マンガで描かれることはなく、どちらかというと、学園ドラマの方で描かれることが多かった。
 平成になっても、
「一人のカリスマ教師を主人公にしたドラマやマンガがあった」
 昭和の頃の学園ドラマとは、かなり様相は違う。
 昭和の頃は、やたらと、
「青春」
 というものが、
「汗と涙」
 というものの代名詞だということになっていて、今から思えば、
「何か臭いセリフ」
 であったり、
「そんなこと今ではありえない」
 と一蹴されるというのが当たり前のことのようであった。
 時代というのは、
「一度流れ始めると、その流れを止めることはできない」
 ということであるが、実は、
「周期になっていて、数年経てば、また戻ってくる」
 ということで、それが、
「ブーム」
 というものであったりするのだ。
 だが、同じブームでも、時代背景が違うので、前のブームを知っている人から見れば、
「何かが違う」
 と感じることだろう。
 言葉は同じでも、内容が違う。
 そんなこともたくさんあるというものだ。
 昭和の頃の、
「負の遺産」
 というものが、今の時代の負債となっていることが結構ある。
 政治でいえば、
「国の借金」
 が、今のツケということになり、当時の政治家は、
「責任を取らずに隠居していった」
 ということであろう。
 スポーツ界、特に野球界などであれば、
「野球留学」
 などというものがそうだったであろう。
 それは、甲子園に出場するために、高校がスカウトを使って、中学で有望な選手を全国で探し回ることで、その生徒に対して、推薦入学を持ち掛け、他に行かないようにもしていたということである。
 もし、自分の学校に来てくれないと、その逸材が、他の高校に行くことになり、敵になってしまうと、こちらの大きな損失である」
 ということになる。