天才のベストセラー小説
そうならないように、自分の学校に引き入れて、即戦力として使うのであれば、これほど、
「甲子園に近づく」
ということはない。
だから、学校は、
「特待生扱いとして、学費免除、成績が悪くとも、進級は絶対」
ということにしておけば、心置きなく、野球に専念できるということになるであろう。
しかし、それはあくまでも、
「野球ができる間だけ」
ということになる。
当然学校側も、契約書には、
「野球部で選手として活躍できる間」
という条件での、特待生扱いであろう。
生徒とすれば、
「野球ができなくなる」
などということを思ってもいないので、その条件に飛びつく。
「親がそれに気づかないというのは、どうしたものか?」
とは思うが、結局、
「子供の熱い思いに負けた」
という形で、入学するだろう。
これは、
「チャレンジ」
という意味で、
「リスクも伴うが、本人としては、頑張りたい」
ということで入学する。
しかし、練習についていけなかったり、途中でけがをしてしまったりして、しかも、そのケガが、選手生命に支障をきたすものであれば、生徒のショックは測り知れないだろう。
だが、もっとひどいのは発行側で、
「野球ができなくなってしまった」
ということで、契約通り、
「野球ができないのだから、授業料免除、進学が絶対という条件はすぐに反故になる。さらには、寮も追い出されることになり、一般の学生と同じ扱いだ」
となると、
「ずっと野球だけしかしていなかったということで、学校の勉強についてこれなくなる。それまでのプライドも自信もすべて砕け散り」
そうなってしまうと、
「どうすればいいのか分からない」
ということになる。
いまさら、親に、
「学費を出してくれ」
とも言えないし、学校にいけば、今までちやほやされていた分、
「なんだ、あいつもう野球ができないんじゃないか」
ということで、誰も見向きもしなくなる。
それどころか、劣等生の烙印を押されることで、学校にもいられなくなる。
当然、友達も離れていき、結局退学ということになるのだが、生徒によっては、
「不良の仲間入り」
ということになり、
「どんどん堕ちていく」
ということになるだろう。
その堕ちていく過程において、学校では先生たちが、まるで、
「腐ったミカン」
という発想から、
「優秀な生徒から切り離そう」
とするのだ。
今までは、優先順位が最高位にいたのに、
「野球ができなくなった」
ということで、最低になり、
「完全に、クラスの中で浮いてしまった存在」
ということで、かばってくれるはずの先生が、完全に敵認定ということになってしまうのであった。
そんな生徒は、どうしていいのか分からなくなり、街のチンピラの仲間入りをしたりして、
「反社」
と呼ばれるところに身を落とすということになりかねない。
それを、平成の学園ドラマでは浮き彫りにしたりしたのだ。
「時代背景は、その当時なのだが、テーマとしては、昭和の頃の学園もの」
果たして、この時代錯誤がドラマとして成立するかということであるが、やはりそこは、
「ノンフィクション」
としては見ることができず。
「空想、あるいは理想として描かれているだけだ」
ということになるだろう。
そういう意味で、大人から子供を見ても、子供から大人を見ても、それぞれに、
「理想と空想」
というものの合間にいて、
「現実と妄想の区別がつかない」
ということになるのではないか?
と考えるのだ。
だから、平成からこっちの時代では、
「一度親子の間に亀裂が走ると。それを修復することはできない」
ということになる。
もちろん、ある程度までは、回復はするだろうが、
「元には絶対に戻らない」
ということになるであろう。
ただ、それは、昭和の頃の親子関係もそうだったのではないかと思えることであり、ただ。勘違いであっても、勘違いのままの親子関係が、支障をきたさずに行けるというのが、昭和の時代だったのだろう。
しかし、平成からこっちは、そういうわけにはいかない。
亀裂が走って、
「元には戻れない」
ということが分かってしまうと、
「誰もが意識してしまう」
ということになり、それを修復するということができなくなるのである。
平成以降の人たちは、それを当たり前のこととして受け入れるのだろうが、昭和を知っている人からすれば、理不尽に感じることだろう。
それは、昭和のドラマを見て育った人たちからすれば、完全に洗脳されてしまっているといってもいい。
特に、昭和の時代は、今の時代に比べて、
「プロパガンダ」
というものが大きく、教育方針などの例としてもそうなのだが、国家体制が、国民全体に周知されなければいけないということで、
「プロパガンダ政策」
というものが、当たり前の時代だったのだ。
昭和の時代は、それでよかった。
平成になり、それまで神話と言われてきたことがことごとく、
「夢幻だったんだ」
ということになると、世間が信じられなくなる。
「銀行が潰れるわけはない」
「終身雇用、年功序列」
というものが崩壊していく。
これらは、悪いことではないのだが、それが、
「バブルの崩壊」
というものから出てきたものなので、ひどい影響を世の中に残すことになるのであった。
「バブルの崩壊」
というものを、誰も分からなかったというのは、やはり、
「神話を誰もが信じて疑わなかった」
ということからであろう。
まさか、本当は分かっている人はいたのだろうが、それをいうと、世間が大混乱となり、もし、神話の崩壊がなかった場合、自分がウソつきとして、世間から葬られるというのが怖かったということもあるだろう。
それを思うと、世の赤というものは本当に恐ろしいといってもいいだろう。
もちろん、子供に親の気持ちなど分かるわけはない。だから、こういうことは、
「妄想でもできるわけではない」
といえる。
しかし、これは、
「自分が大人になった時、子供の時のことを思い出そうとして思いだすかのようなイメージで考えた」
ということである。
それがたまたまヒットしたというだけで、ある意味、
「デジャブの逆:
といってもいいかも知れない。
「見れるはずがない将来のことを、まるでタイムマシンか何かで見てきたかのような発想が浮かんだのではないか?」
というようなものである。
デジャブという感覚は結構あるのだが、それに対しての証明はされていない。
だから、ほとんどの人は、
「その感覚は、何かの錯覚だ」
と思うことで、
「その根拠を知りたい」
と思うのだった。
「根拠さえあれば、容易に信じることができる」
という感覚で、
「1+1=2」
というのもそうだったのだ。
「根拠がないから信じられない」
ということであるし、
「根拠があれば、簡単に理解できたのにな」
ということであった。
いや、根拠がある必要はない。
「納得させられる」
という必要はないのだ。
「自分が納得できればいい」
作品名:天才のベストセラー小説 作家名:森本晃次