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天才のベストセラー小説

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 いくら、自分以外にも担任がいたといっても、それを免罪符にして、自分の罪を少しでも軽減しようというのは、卑怯であろう。
 ただ、そうは言っても、
「最初が自分だった」
 ということで、その罪の意識がまったくないわけではないので、どうしても気になるのであった。
 一年生の担任は、そういう意味では、
「中途半端な考えを持っている」
 といってもいいだろう。
 これが二年生の担任ともなると、こちらは、もうどうしようもない。
 すべてを、
「一年生の先生が悪いんだ。俺は疫病神を押し付けられたにすぎない」
 としか思っておらず、
「なるべく佐伯のことは無視して、成績のいい生徒を伸ばしてあげることに集中しよう」
 と思っていたのだ。
「長所と短所があって。短所を治すことよりも、長所を伸ばしてあげる方が、教育者として必要なことだ」
 ということを言っている人の話を聞いたことがあった。
 これも確かにその通りなのだが、この先生に限っては、これを、
「免罪符」
 ということにして、自分の罪から逃れようとしている。
 ということは、
「この先生は、
「自分に罪はある」
 ということを分かっているのだ。
 分かっていて、それを認めたくないということから、何とか免罪符を探して、
「気づかなかったふりをする」
 ということで、自分の罪から逃れようとしている。
 つまりは、
「ただの逃げ」
 ということである。
 免罪符」
 というと、まだ聞こえがいいくらいで、罪の意識を、いかに自分のせいではないかということで逃れようとしているかということである。
 ただ、それでも必死になるということは、ただ逃げているわけではない。。
「自分を納得させなければ、気が済まない」
 ということであり、
「責任逃れ」
 とは違うのだ。
 だが、これも、責任逃れというのは、自分に責任があるという自覚があるからであり、
「この先生も中途半端だ」
 と思えるのは、そのあたりにあるからではないだろうか、
 どんなに免罪符を探したとしても、それは、
「事実から逃げている」
 ということに変わりがあるわけではない。
 それを思えば、
「無限にあるかも知れない可能性を、その中の一つを潰しても、新たに現れるということで、いくら逃げたとしても、どこかに限界がある」
 ということが分かるというものだ。
 それを何とかしたいということで、
「いかに早く正当性のある免罪符を見つけるか?」
 ということが大切だと感じたことだろう。
 生徒はそんな先生の気持ちというものを、態度から感じ取るのか、
「この先生は、生徒のことなど、これっぽちもなんとも思っていないんだ」
 と思うと、生徒の方も、
「先生を嫌いになる」
 という免罪符を探すようになる。
「なるほど、二年生の時、皆、この先生のことが嫌いだったわけだ」
 と思った。
 ただ、これも成績と一緒で、
「嫌いな人がどんなにたくさんいても、中には好きだという先生だっていてしかるべきではないか?」
 とも感じた。
 しかし、見ている限り、先生のことを好意的な目で見ている人は誰もいない。それを考えた時、
「やっぱり、この先生は最悪なんだ」
 と思うと、ますます、学校が嫌になってきた。
 勉強が嫌いになる」
 という理由にはならないのだろうが、人情として、
「嫌いで、最低だ」
 と思っている人間から教えられるものを、何を好き好んで勉強などしようと思うものかと感じるのであった。
 だから、二年生の頃まで、算数の公式を分かるということは、自分の中では許されないことだったのだ。
 それを二人の先生は、
「自分のせいだ」
 とは思わない。
 それがすべての理由であり、三年生になって、少し自分が見えてきたことで、算数が分かるようになったというのも理屈に合っているというものである。

                 親側の気持ち

 陽介少年が、自分のことを、
「天才だ」
 と思っていた理由のもう一つとして、
「子供の立場から見て、親の気持ちが分かる」
 と思ったからだ。
 大人がそんなことを聞けば、
「そんなの分かるわけはないじゃないか? それこそ思い上がりも甚だしい」
 と思うに違いない。
 だが、本当にそうなのだろうか?
 子供がこれだけたくさんいるのだから、大人の気持ちが分かる子供がいてもいいのではないだろうか?
 世の中には、
「超能力者」
 というのがたくさんいるという。
 むしろ、超能力と呼ばれるものは、実際には皆持っているという考え方だってあるではないか。
 というのも、
「人間は、脳の一部しか使っておらず、それが全部使えるとすれば、それこそ、エスパーのようになれるのではないか?」
 と言われているではないか。
 だから、頭の使える部分が多いという人も稀ではないと思えば、
「大人の気持ちが分かる子供がいても、別に不思議なことではない」
 といえるだろう。
 特に、人間というのは、
「遺伝」
 というものがあり、それをつかさどっているのが遺伝子というものである。
 この遺伝子は、親から子に受け継がれていくもので、実際にはそれだけではなく、その人の人間性を、遺伝というものだけでなく、オリジナルに形成されているところがあれば、それも、
「遺伝子の働きだ」
 といってもいいだろう。
 だから、自分の先祖から脈々と受け継がれてきた遺伝によって、その記憶が遺伝子の中に刻み込まれているとすれば、ご先祖様の、
「子供に対しての気持ち」
 というものが分かる思いも受け継がれているのかも知れない。
「大人になると、子供の頃に感じた思いを、いつの間にか忘れてしまう」
 と感じるのだが、それは、
「大人になるにつれて、長い者には巻かれるというような感覚になるからではないだろうか?」
 と感じるのだ。
 確かに、
「大人になるということは、まわりのことであったり、まわりから見る自分たちのことを考えないといけない」
 ということになる。
「世間体」
 などというのが、その代表例であるが、子供の頃に、その
「世間体というもののために、親は子供をしかりつける」
 ということが分かっていれば、その理不尽さというものが、子供の意識の中で残るので、
「親になったら。自分は子供に対して。そんな世間体のために、優先順位を考えた時、子供を下にしたりはしない」
 と思うはずだ。
 しかし、実際には、世間体というものを最初に考えてしまい、子供の行動で、大人が恥をかいてしまったりするのだ。
 特に、昔の母親が子供に説教する時、
「お父さんの顔に泥を塗るようなことはしないで頂戴」
 とよく言っていたではないか。
 それを子供心に、
「理不尽だ」
 と思っていた。
 大人になってからその言葉を聞くと、
「母親というものが、責任転嫁をしている」
 としか思えない。
 というのは、
「説教するのだから、母親は子供と向き合うのが当たり前で、向き合う態度を子供に示さないと、子供がいうことを聞くはずがない」
 ということになるのだ。
 自分の説教に正当性を与えたいということで、
「父親の威厳」
 であったり、
「世間体」
 というものを持ち出すのは、