天才のベストセラー小説
という公式を、自分が認めるわけにはいかないと感じるようになったのだった。
だから、
「そうなっているんだから、しょうがないじゃないか?」
という理屈を余計に許せないと思うのだった。
もちろん、
「父親から母親。そして、母親から自分」
というストレスのはけ口が進んでくることで、家族の中では、最後になる自分が、他の誰もはけ口をぶつけることができる相手がいないと考えると、そういう、
「理屈に対して、自分のストレスをぶつけるしかない」
と思うようになった。
その時、
「皆が納得してもいないことを、自分では納得できない」
ということへの不満がどこからくるのか最初は分からなかった。
だから、
「人と同じでは嫌だ」
という性格からきているものだ。
と考えるようになったことが、まわりまわって、
「自分が天才ではないか?」
という、理屈としては、少々おかしな、
そして、
「歪んだ」
という考えになってしまったのだと、考えるのであった。
それを思うと、
「天才という感覚が、自分にとって、どこから来たものかということに、学年が上がっていくうちに気づいてくる」
というようになった。
すると、
「俺は天才なんていうことではなく、ただ逆らっていただけなんだ」
と思うと、今度は、
「遅れた勉強を取り戻そう」
と考えるようになり、
「1+1=2」
を受け入れるようになった。
これは、あくまでも、
「世間に屈した」
というわけではなく、親に対して、
「理不尽だ:
と感じたことを、自らが行うことで、
「わだかまってしまった理屈を甘んじて受け止めよう」
というのが、陽介の考え方であった。
それが、ちょうど小学校の三年生の頃からであっただろうか。
それから、陽介は、前のめりの形で勉強をするようになった。
特に算数に関しては、
「遅れている」
という感覚が強く、先生を捕まえては、独学では分からないところを、知ろうとするのだったのだ。
だから、勉強をしているうちに、どんどん、分かってくるようになることが楽しかった。
特に、それまで反発していた先生と、自らが和解できたということが嬉しかった。
先生は、
「自分が生徒の心を開かせた」
と思っているかも知れない。
しかし、それでもよかった。
先生がそう思っている限り、決して自分に対して、上から目線で話すことはないだろう。せっかく心を開いた生徒に余計なことを言って、さらに、成績が悪くなれば、今までの苦労が水の泡だということが分かるからであろう。
だから、先生は、徹底的に、陽介に対して、献身的に勉強を教えたのであった。
その成果もあって、算数の成績はうなぎのぼりに上がっていった。
それまで、算数のほとんどのテストで、
「0点だったのだ」
それは白紙によるもので、最初が分からないのだから、その先が分かるわけはないということで、それを一歩乗り越えると、今度は、
「勉強が楽しくなる」
それは、今まで分からなかっただけに、分かることが楽しくて仕方がないのだ。
そう思うと、特に算数のように、数字の規則的な羅列というものは、小学生の頭でも十分に理解できるだけの、
「公式」
というものを見つけることは容易なことだ。
それを自分で研究し見つけてきては、先生に放課後発表していた。
それまで、担任の先生以外でも、他の先生たちの中の話題に、陽介が上がるのはその頃は当たり前だった。
「すごいわね。佐伯君が、こんなに成績が良かったなんて不思議だわ」
と、一年生の時のクラス担任はびっくりしていた。
「あの子は、どうしようもないということで、私は、半年で諦めました」
とその時の担任の女性教師は行っていた。
二年生の時の担任も、何も言わないが、同じように、ただ頷くだけだった。気持ちは一年生の担任と同じに違いない。
しかも、それは、
「一年生の担任が、放っておいたツケが自分に回ってきただけで、自分が悪いんじゃないんだ」
という、完全に、
「前任者が悪い」
という、
「自分には一切の責任はない」
という先生としては、たぶん、最低のレベルに当たる、
「底辺の先生だ」
といってもいいだろう。
だから二人とも、
「三年生の担任のこの先生が、何か魔法のようなものを使って、佐伯君を更生させたんだ」
とばかりに、まるで、佐伯少年が、
「まるで、劣等生の鏡で、本人の力では勉強ができるようになることはない」
ということで、何か犯罪者であるかのような発想を抱いてしまっていたことであろう。
そう思えばこそ、
「自分たちが悪かったわけではない」
という正当性を感じたいと思ったに違いない。
そう思うと、
「一年生の担任というのは、嫌なんだ」
と思うのだった。
一つのことが分かると、どんどん分かってくるということは、逆にいうと、
「一つのことが分からなかったことで、直接関係していないことまで分かっていなかったのかも知れない」
とも思えた。
確かに。算数のように、
「すべての科目が0点に近い」
というわけではなかったが、
「普通、苦手な科目が多くても、どれか一つくらいは、平均点を超えている科目があってしかるべきだと思うんですよ。お子さんが勉強全体が嫌いだというのは、そういう何か突出した家屋がないからではないでしょうかね?」
と、三年生の最初の頃に、三年生の担任が、母親に言っていたことだった。
それは間違いのないことであり、確かに、勉強自体が嫌いだというのは、
「好きな科目や、成績のいい科目がないからであったが、さすがに三年生の担任でも、その根底が、算数という科目の一番最初の部分を理解していないからだとは思ってもいなかった」
といえるだろう。
一年生の時の担任だけは、それを分かっていた。
しかし、まさか、
「三年生になっても、最初の公式で詰まってしまっているなどと思いもしなかったのだ」
というのも、今までの経験から、
「確かに、一年生の頃に最初で引っかかって、先に進まないという子もいるにはいたけど、皆二年生になる頃には少なからずの克服が見えたからだ」
ということであった。
それが、なぜそんなにできないのかということを、想像もしていなかったのだ。
それを考えると、
「三年生になってしまうと、そこは未知数であり、彼女が思っているのは、ほぼ、できないだろう」
ということで、
「算数に関しては、どうしようもない」
と思うしかなかったのだ。
それでも、他の科目に何か興味ができれば、違うだろう」
と感じていた。
一年生の時の担任であった、女性教師は、佐伯少年に関しては、
「自分に責任というものはない」
と思っているので、
「後は、それ以降の担任の責任だ」
と思うことにしていた。
ただ、万が一、卒業するまでにまた自分が担任になってしまった時には、
「二年生以降の担任が、どうにもできなかったのであるから、自分に責任はないとは言えないが、他の先生にも同じだけの罪がある」
と思うことで、自分の正当性を考えようとしていたのである。
作品名:天才のベストセラー小説 作家名:森本晃次