天才のベストセラー小説
これらのことを、陽介は、小学生の時に考えていた。
学校で習ったわけではないが、アニメなどを見ていると、小学生でも思いつくことなのだろう」
と、陽介は考えていた。
そもそも陽介は、小学校低学年の頃までは、
「俺は天才ではないか?」
と思っていた。
しかし、成績は最悪だった。
特に、算数などは、見れたものではなく、採点をすれば、
「0点」
がほとんどだったのだ。
それもそうだろう。
名前を書くだけで、答案用紙は白紙である。
「どうして白紙で書くんだ?」
と先制が訊ねると、
「答えが分からないから」
と答える。
「どこが分からないんだ?」
と先制は聴いた。
先生とすれば、返ってくる返事を、
「どこが分からないのかが分からない」
という答えなのだろうと考えていた。
それは、あくまでも、
「途中までは分かっているけど、そのうちに分からなくなってきたのだろう。その原因が、何が分からないか分からない」
ということからきているのだと思ったのだ。
それは、自分にも言えることで、先生も、学生時代に、何度か分からなくなったことがあったようだ。
それをいかに克服したのか、その時々では覚えているが、時間が経つと覚えていないのだ。
それだけ、意識が前に進んでいるからであって、過去の、
「負の遺産」
のようなものは、わざわざ覚えているということはないと感じていたからではないだろうか?
しかし、陽介の場合は違った。
「俺が分からなかったのは、最初からで、算数を分かったと感じたことはなかった」
ということであった。
つまりは、
「1+1=2」
ということが、理屈として分からなかったのだ。
もし、これを先生に聞いたとして、正確な答えが返ってくるだろうか。
陽介が聞いたとしても、正解を求めているわけではない。自分も分かっていないわけで、「分かるはずのものではない」
と思っているのだから、それを相手に要求するというのは、相手がいくら先生であっても、無理なことであろう。
だから、
「算数というものが、いかなる学問か?」
ということから入ろうとする。
皆が最初にくぐるところをすっ飛ばして考えようとするから、いつまで経っても、答えがでない。
もっとも、
「答えなど出るわけはないだろう」
と考えるからではないだろうか?
「1+1=2」
というのは、算数の基本として、一番最初に習うものであろう。
「学校に行って勉強をする」
ということを、小学生になる、6,7歳の頃から誰もが始めるのだが、正直まだ、物心がついているのかどうか、怪しいものである。
だから、小学生に入学した頃の記憶というと、
「まず覚えていない」
というのが正直なところであろう。
一年生になってからというもの、
「確か、算数では、あの公式を覚えさせられた」
ということで、
「1+1=2」
というのが頭に浮かんでくるだろう。
しかし、
「それを、どのようにして理解できたのか?」
ということを覚えている子はまずいないだろう。
先生も、たぶん、
「理解させよう」
ということはしなかったに違いない。
なぜなら、
「理解させようとすると、どうしてそうなるのか?」
ということを説明しなければならない。
しかし、理論的には分かっていたとしても、それを説明することは困難で、しかも、算数の何たるかというものの基礎すら分かっていない子供に理解させるのは、まず無理だというものだ。
そうなると、
「公式としてそうなっているんだから、そのまま覚えてください」
としか言いようがないだろう。
だから、子供はそのままその公式を覚えようとする。
実際にそのまま覚えるから、抵抗があっても、あまり問題なく受け入れてくれる・
というのは、それがまだ、
「小学一年生の子供だ」
ということだからである。
それは、他の学問にしても同じで、
「漢字というものを覚えるのも同じことだ」
といえるだろう。
もっといえば、
「ひらがなの50音を覚えるのも難しいだろう」
つまり、
「最初で疑問を抱くということであれば、先には進まない」
ということで、
「何も知らない。何も入っていない器だからこそ、柔軟に受け入れることができる」
ということで、逆に、
「このタイミングしかない」
ということになるのだ。
小学一年生くらいの知能が、そういう状況を一番受け入れやすい年齢だといえるのではないだろうか。
だから、皆理解をしているわけではないのだが、素直に受け入れられるのである。
しかし、陽介はそうではなかった。逆に、
「理解もできないことを簡単に受け入れられるわけはないじゃないか?」
と考えるのだ。
その考え方があることから、
「俺は、天才だ」
と感じたのかも知れない。
それに、小学一年生の時に、
「まわりと同じであれば、人以上ということはない」
ということに関しては、理解ができている。
つまり、
「人と違っていなければ、人より上ということはなく、人より上に行かなければ、天才ということにはならない」
ということを考えると、
「人と違っていなければ、天才ではない」
という理屈は分かっていたのだ。
そういう意味で、
「天才だ」
といってもいいかも知れない。
これは、大人になるにつれて、誰もは一度は感じる理屈である。
それを小学一年生の頃に感じるのだから、
「これこそ天才だ」
といってもいいのではないだろうか?
小学一年生という年齢は、
「素直で従順でなければいけない」
という理屈は、
「1+1=2」
というものを、理屈抜きに理解もせず、受け入れることができるために必要だ。
ということになるのだろう。
そうでなければ、
「大人が子供を大人になるように導く」
ということはできないだろう。
国民の義務にも、権利にも、
「教育」
というものがあるが、
「義務というのは、教育を受けさせる義務であり、権利というのは。受ける権利のことである」
ということになるのだ。
だから、大人は、子供を、
「洗脳」
してでも、勉強ができる頭にしてやらなければいけないということになるのだろう。
きっと、陽介少年は、そんな
「洗脳」
というものを意識していたのかも知れない。
自分が、そんな手に引っかかって、そのことを信じさせられたとすれば、それは、
「自分にとっての屈辱だ」
と考えたからなのかも知れない。
陽介は、父親がよく、家で母親を詰っているような姿を見ている。それは、会社でのストレスを母親にぶつけていたようだったが、そこまでさすがに小学一年生で分かるわけもなかった。
しかし、
「理不尽だ」
ということは分かっていて、息子ながらも、
「母親がかわいそうだ」
と思っていた。
しかし、そのうちに、今度は母親が、自分に当たるかのような、どこかあからさまなところが見えてくると、
「俺がすべてを引き受けたかのようになっている」
と思うと、いかにも理不尽だと思うようになった。
そうなると、世の中が、
「皆、そうだと認めることが正しい」
というような、
「1+1=2」
作品名:天才のベストセラー小説 作家名:森本晃次