天才のベストセラー小説
定年というのも、どんどん伸びていき、今の時代になってくると。平均寿命が70歳を超えるということになるのであった。
それが原因というわけではないだろうが、若年層の成長が、昔に比べて遅くなっているのか、昔であれば、婚姻というと、十代での婚姻が普通だったりした。
これは、そもそもの寿命が短いから、早く婚姻して、跡取りを作っておく必要があるということなのだろう。
特に戦国時代の婚姻というのは、
「政略結婚」
というものが結構あったようで、
「婚姻というよりも、人質というイメージが強かった」
ということもあっただろう。
同盟を意味する結婚などというのは、結構行われていて、
「武田、後北条、今川氏」
などが有名だったりするが、それら同盟を結んでいても、それだけではなく、後北条氏が、上杉家と婚姻を結んだり、徳川と婚姻を結ぶなどというのもあったりした。
何しろ、
「配下の者が、領主にとってかわるために、謀反を起こす」
などということが、大っぴらに行われていたのが、
「群雄割拠の戦国時代」
生き残るためには、なんでもありといってもいい時代と、今のような、
「平和ボケ」
といってもいい時代とでは、
「まったく違う時代だ」
といってもいいだろう。
今と昔ではまったく違う時代ではあるが、
「他人には、本心を見せない」
ということは、当たり前のように行われている。
これは、
「まったく違うものであっても、一周回って戻ってくることで、結局同じことをしているだけだ」
ということを思い知らされるかのような世の中であることを、思い知るだけではないだろうか?
それを考えると、
「人の言葉というものを、果たして額面通りに受け取ってもいいのだろうか?」
ということになる。
もちろん、重みを感じさせる言葉は、その力強さというものを感じさせるもので、
「世の中、思い通りにいかないことも結構ある」
ということであるが、その
「思い通りにいかないこと」
というのが、
「自分にとっていいことなのか?」
それとも、
「悪いことなのか?」
ということを考えさせられるが、基本的に、
「思い通りにはいかない」
ということを言われると、それは、
「悪いことではないか?」
という先入観で考えてしまうだろう。
しかし、前述の、
「一周回って」
という発想でいけば、
「いいことというのも、十分にありえる」
ということで、すべてが悪いことだというのは、潜在意識が勝手にそう思い込むということになるのではないだろうか?
ただ、
「子供の頃に天才だ」
と言われる子は意外と多いものだが、成長するにしたがって、その子たちは目立たなくなる。
「二十歳過ぎればただの人」
という言葉があるが、まさにその通りである。
「人間の成長は、皆同じように、正比例の形で成長していくとは限らない。大器晩成ということで、中学生くらいから急に成績が伸びる子供もいれば、逆に、小学生の間は、トップクラスの成績で、中学くらいから、どんどん成績が落ちていく」
というような子供もいるだろう。
それは、
「身体の成長」
というものとあまり変わらないのではないだろうか?
というのは、
「早熟な子は、背が伸びるのが早い。しかし、大器晩成型は、中学生から高校生に掛けて、一気に成長する」
という。
しかし、精神と肉体とでは、その成長の過程が同じだとは限らない。
というのは、
「肉体は、早熟だが、精神の成長は大器晩成」
という人もいる。
ただこの場合の精神というのは、
「考え方という側面と、頭脳という意味で、成績の良し悪しという二つがあり、だから、成長に関しては、精神と肉体だけではなく、頭脳というものも、もう一つその中に加えておくという必要があるだろう」
といえるのではないだろうか。
それを考えると、
「精神と、頭脳は、肉体と頭脳というものよりも、もっと大きな差がある」
という場合も十分にあり得ることであろう。
何かのきっかけ
陽介が、自分のことを、
「天才だ」
と自分で言っていたのだが、世の中というもの、
「口に出していれば、それが本当のことになるのかも知れない」
ということで、ことわざとして、
「ウソから出た誠」
という言葉がある。
ことわざだけではなく、童話の中にもそういう話があり、それこそが、イソップ寓話の中にある、
「オオカミ少年」
の話のようではないか。
これは、心理的な話として有名なもので、
「一人の羊飼いの男の子が、ウソをついて、オオカミが来たといって、村人に触れ回ったので、村人はそれを信じて警戒するが、それが徒労に終わった。それを少年が繰り返しているうちに、誰も少年を信じなくなり、そのせいで、いずれ本当にオオカミが来たのに、誰も信じないので少年を助けなかった。そして、村の羊は、すべてオオカミに食べられてしまう」
という話である。
この話には、いくつかの教訓が含まれている。
「人間は、何度も同じウソをつかれてしまうと、もう誰も信用しなくなる」
という教訓である。
もう一つは、ことわざにある、
「木を隠すには森の中」
という言葉で言われるように、
「何かを隠そうとする場合、つまり、ウソであることを隠そうとする場合は、本当の中に紛れ込ませるのがいい」
ということに付随する考え方ではないだろうか?
そんなことを考えると、
「一つの寓話の中にも、いくつかの教訓というものが含まれている話があり、それは、最初から、
「教訓を複数入れよう」
という考えから生まれたものなのか?
とも考えられる。
というのは、例えば、ミステリー小説などで、
「完全犯罪」
というものを考えた時、何とか、いくつかのトリックを組み合わせて、完全犯罪を完成させようとすると、
「却って、どこかから隙が生まれるようで、うまくいかない」
と考えられるような気がする。
考えてみれば、犯罪を行う時、
「どうしても、一人ではできない」
ということで、
「共犯者」
というものを探して、仲間に引き入れるということが往々にしてあるが、犯罪としては、
「共犯者が多ければ多いほと、犯罪や真相が露呈してしまわないとも限らない」
ということである。
共犯者というのは、いくら、
「同じ目的に向かって進む仲間だ」
ということでり、目的は一緒であっても、その理由が同じではないので、時が進んで行ったり、捜査状況が進んでいくことで、事件の進展が変わってくるということも多いことであろう。
それを考えると、
「事件というものは、相手、つまり警察の捜査が、自分たちの犯罪計画どおりに動くとは限らない。何といっても、相手は、捜査のプロであり、犯罪者が行った犯罪に比べて、警察が検挙した数は、お話にならないくらいに多いことだろう」
といえるのではないだろうか?
犯罪者と警察の関係というのは、ある意味、
「いたちごっこだ」
といってもいいだろう。
一般的な、
「殺人事件」
などというのとは違い、最近増えている、サイバーテロであったり、詐欺事件などというのは、その多様化というのが叫ばれている。
作品名:天才のベストセラー小説 作家名:森本晃次