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天才のベストセラー小説

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 ということで、人が賞をもらっていて、授与している校長先生も、まわりも、何の疑いもなく、もらっている生徒を称えている。
 母親はその光景を見て。
「なんで、皆そんなに自分のことでもないのに、人がもらっている賞に対して、喜べるのか?」
 と感じたのだ。
「私は悔しくて仕方がない」
 と思ったのだが、その気持ちがどこからきているのかが分からなかった。
「どうして、悔しいんだろう?」
 ということである。
 賞品自体がうらやましいわけではなく、それよりも、
「まわりからちやほやされる」
 ということだった。
 それが嫉妬に繋がり、挑戦しなかった自分が、情けないとも思うくらいで、それを感じると、
「ノミネートに立候補しなかった自分が悪い」
 ということだが、
「どうして、こんなに悔しい思いをするのであれば、最初から立候補しなかったんだ?」
 という思いにつながるわけであり、
「後の祭り」
 であるはずなのに、それを最初から考えなかった自分に後悔するのであった。
「中学になれば、似たようなものはいっぱいあるだろうから、その時は、自分から立候補しよう」
 と考えるのであった。
 そして、中学校に入ると、その学校では、まず、新入生の弁論大会のようなものがあった。
 この学校は、弁論大会に力を入れているのか、飽きの文化祭シーズンになると、また今度は、全学年による弁論大会があるようで、それに決勝戦まで進めば、市のコンクールにノミネートできることになっているようだった。最終的には、県のコンクールがあるようで、それを目指している生徒もいるようだった。
 勉強は好きだったが、そういうコンクールというものには、興味はなかった。ただ、
「人がもらっているものを自分もほしい」
 という少し欲張りな気持ちから、最初の弁論大会に出場しようと思ったのだった。
「クラスから何人出てもいい」
 ということであったが、それでも、基準というものはあり、いちおぅ言われているのは、
「3人まで」
 ということであった。
 だから、
「必ず一クラスから一人は出ないといけない」
 などというルールはなかった。
 さすがに、ノミネート者が2,3名だと寂しすぎるので、その時は、担任が募集するということになっていたようだが、そうでもなければ、学校側から、生徒の方に、
「出てくれないか?」
 などということはなかった。
 そういう意味では比較的、自由が学校だということで、それはそれでありがたいことであった。
 陽介は、
「しょせん、一年生の中でなら、楽に優勝できるのではないか?」
 と思っていたが、
「そうは問屋が卸さない」
 ということで、実際に出場してみると、入賞すらできなかった。
「そんなバカな?」
 と思ったのは、
「演台の上にいる時、別に緊張もしなかったんだけどな」
 と思ったことだった。
 自己採点でも、余裕でこなせたはずだと思っていて。他の人と比較しても、そこまでひどくはなかったのだ。
 そこで、放送部の人にその時の映像を見せてもらったのだが、
「これじゃあ」
 と自分でも思うほどだった。
 想像しているよりも、緊張しているのがハッキリと分かる。声は上ずっていて、なぜか、アクセントが、どこかの田舎の方言だったのだ。
「俺って、こんなに、舞台に上がると違うんだ」
 と思い知った。
 それにより、
「少し、弁論大会から遠ざかってみようかな?」
 と思ったのだった。
 知らない人が見れば、
「逃げに走ったのか?」
 と思われるかも知れないが、実際にはそんなことはない。
 というよりも、
「もし、まわりがそんなことを気にしていると感じるのであれば、それは、おこがましいというものであり、自分が思っているほど、まわりは、私のことなど気にしているということはないだろう」
 ということであった。
 遠ざかったみたいと思ったのは、弁論大会における原稿を考えている時、ふと感じたことであった。
 それがどういうことなのかというと、
「原稿を書いていて、小学生の頃の作文であれば、まったく思いつかなかったようなことが、原稿というものだと思うと、結構次から次に、発想が生まれてくるのだった」
 ということであった。
 内容としても、着想からすぐに思い浮かんだことで、原稿もスラスラと言葉が出てきて、あっというまに、原稿ができたのだった。
 先生から、
「これくらいの時間での演説だったら、これくらいの分量でいいよ」
 といわれていた。
 だから、それに沿って書けたのも、よかったのかも知れない。
 しかし、それでも最初は、
「枚数ならいざ知らず、文字数までも限定されてしまうと、緊張して書けないかも知れないな」
 と思ったにもかかわらず、想像していたよりも、スムーズに書けたということで、自分でも安心したのであった。
 小学生の頃の作文というものが、どれほどのものであったのか、自分でもよく分からなかったが、実際に当時を思い出して比較して見ると、結構分かってきたものだった。
「やはり、最初のとっかかりからして違った。小学生の頃は、なかなか思い浮かばない。なぜなのかと思って考えてみると、どうやら、題材が曖昧なものだからではないだろうか?」
 というのも、たとえば、
「小学生の遠足」
 というようなもので、しかも、それを、授業だからということで、
「学校から押し付けられた」
 という感覚になっていたが、弁論大会というのは、別に皆が出なければいけないものではなく、自分で立候補したものだったのだ。
 確かにプレッシャーは感じるが、同時に、
「自由にやればいい」
 という思いもある。
 それはきっと、
「自分から立候補した」
 ということで、自由でありながら、
「自分で課したノルマ」
 だということをわきまえているからだろう。
 そう思うと、発想の中では、
「自由」
 ということが頭をもたげてくるのだろう。
 そう思うと、
「まるで小説家にでもなったかのようだ」
 と感じ、それが、自分に余裕のようなものを感じさせたのだろう。
 その思いがあったから、
「演台の上で緊張することなどない」
 と思えたのだ。
 しかし、じっさいに やってみると、想像よりも最低であった。
「やはり、舞台の上は似合わないかも?」
 と感じたことで、
「じゃあ、裏方というか、原稿を書く方が向いているとして、小説家か、脚本家などのような、作品をクリエイトする方に進む方がいいかも知れない」
 と思ったのだ。
 どうしてそう思ったのかというと、
「モノづくりというものに、以前から興味があった」
 ということである。
 ただ、芸術的なことには疎いのだと自分で思っていたからで、小学校での教科として、
「図工」
「音楽」
 などというものは、小学3年生の頃からすでに、見切りをつけていた。
 図工は、遠近感や、立体感が致命的に欠如していると思っていた。その理由を、
「錯覚を含めて、素直にしか見ることができないからだ」
 と思っていた。
 それは決していい意味ではなく、悪い意味だというのは、自分の中でも明らかなことだと考えていたのだった。
 算数や理科などの主要科目であれば、
「問いに対して答えは決まっている」