国家によるカプグラ症候群
「空気や水があって、人類が生存できるだけの星というのが、どれだけあるのか?」
ということである。
実際に存在しているこの宇宙の星というのが、どれだけたくさんあるというものであるか、正直分からない。その中で、人類が生存するには、
「水と空気」
というものが最低限であり、他には、
「太陽のような恒星の恵みがないと存在できない」
と言える。
そもそも、
「水と空気」
というものも、
「太陽のような恒星の恵みによるものだ」
ということになるのではないだろうか。
ただ、これはあくまでも、
「人間というものの性質」
ということから考えたことである。
「宇宙には、水も空気も必要としない」
という生物がいて、その生物は、人間などよりも、はるかに文明が発達しているところなのかも知れない。
ひょっとすると、
「その先祖は人間と一にする」
というものかも知れず、
「別の星で生存したことによって、その進化の度合いが変わってきたのかも知れない」
ということになるかも知れない。
あくまでも、人間というのは、
「自分たちの考えられる範囲でしか、想像することができない」
だからこそ、豊かな想像ができるのかも知れず、
「人間だけが、地球上で、頭脳が発達した生物なのかも知れない」
ということである。
だとすると、
「宇宙船で、他の星に行ったとして、人間が生存できる星なのか分からない。そうなると、宇宙船での、地球脱出というのは、本当の命がけ」
ということになるだろう。
もし、他の星にたどり着いて、空気も水もない世界であれば、生存することができない。
逆に、それ以外に生存することができる別のものがあって、そのためには、
「別の性質にならなければいけない」
ということで、人間に、そんなことができるはずもなく、そこに住んでいる宇宙人に、その発展した科学力によって、
「自分たちと同じ性質を持った生き物に作り替えられることになるかも知れない」
と言えるであろう。
ただ、それは、彼らの善意からではなく、
「奴隷としての、彼らの都合のよさのためだ」
ということであれば、宇宙人が、
「地球人というものを、奴隷として使おう」
という発想を持ち、地球を、
「植民地」
として、開拓しようと思ったとしても、それは無理もないことである。
人類だって、同じ人間の間で、同じことをして、古代から、存在している、
「奴隷制度」
というものが、それを物語っている。
だとすると、
「奴隷制度」
というのは、古代の、
「人類の黎明期」
ともいえる、まだまだ下等だった人類においてのことだけではなく、もっと進んだ文明においては、明らかな奴隷制度が存在したのかも知れない。
人類が、今の国家体制として、一番ポピュラーなものとして、
「民主主義」
というものがあるが、これは、
「自由」
と
「平等」
というものを掲げているが、結果としては、
「自由を優先するあまり、平等ではなくなっている」
ということで、それによって出てきた問題が、
「貧富の差の激しさ」
というものではないか。
それこそ、奴隷制度の時代のように、
「口では平等だ」
と言っておきながら、結果として、出てきたものは、
「奴隷制度」
に代表される、
「形として表れていない身分制度」
であったり、
「格差社会」
というものではないだろうか?
竜宮城というものは、人間に、その未来の世界である、理想の世界を見せつけ、いずれ、
「地球を侵略しよう」
とする宇宙人の、デモンストレーションのようなものではないだろうか?
少し、考え方は、奇抜ではあるが、そもそも、浦島太郎のお話というのは、それだけ辻褄の合っていないところが多い。
それを考えると、
「どこで発想の妥協を行うのか?」
ということが問題になるのではないだろうか?
「浦島太郎は、本当は記憶を失っていたのではないだろうか?」
という発想もある。
あるいは、
「玉手箱を開けたことで、それまで失っていた記憶が戻ってきて、竜宮城の記憶が消えてしまったのかも知れない」
と言えるだろう。
というのも、
「だからこそ、玉手箱を開けた瞬間に、このお話は終わっているのだ」
ということである。
本当は、このお話には続きがある。
そもそも、
「カメを助けたという正しいことをしたのに、なぜ、おじいさんにならなければいけないのか?」
ということである。
これでは、辻褄が合わないではないか。
「いいことをすれば、いいことの報いがあり、悪いことをすれば、罰を受ける」
これが、童話であったり、寓話というもののはずではないかということである。
これは、昔から言われていることであり、この話が、
「なぜ、ハッピーエンドではないのか?」
ということであった、
他の話には、
「いいことをすれば、ハッピーエンド」
「悪いことをすれば、その報いを受ける」
という、宗教的な側面があることから、
「童話、寓話」
においては、
「教育的な指導を下に作られている」
と言ってもいいのではないだろうか?
ただ、この浦島太郎という話には、
「開けてはいけない」
という玉手箱を開けてしまったという、
「見るなのタブー」
が存在する。
この話をどうしても、ハッピーエンドにしたくないという思いから、後付けで、
「見るなのタブー」
というものを、でっち上げたとすれば、それはそれで、辻褄が合っているといってもいいだろう。
それを考えると、
「浦島太郎の話は、本当に寓話となるのだろうか?」
と考えられる。
本当は子供向けではなく、何か隠しておきたい発想が含まれていることから、
「寓話の中に潜り込ませた」
という、一種の、
「木を隠すには森の中」
というような発想が出てくるのではないだろうか?
「一番目に付きやすいところが隠し場所」
という、まるで、
「石ころ」
のような存在になるのではないだろうか?
催眠術
記憶喪失が治って戻ってみると、そこには、自分の身代わりがいた・
この発想は、少し難しい思いがあるのだ。
自分と同じ人間がいるというわけではなく、その立場の人間がいるということなのだが、実際にその立場の人間との付き合いが、相手が自分の時とまったく変わらあい様子であることに、違和感を感じるのであった。
最初は、
「記憶喪失だからしょうがない」
と言われていたことで、実際に、記憶喪失ではなくなると、そこまで贔屓的な目で見ていたものが、なくなってしまい、
「記憶が担保になってしまう」
ということで、戻っても、本来であれば、
「もう間に合っている」
という状態ではあるが、簡単に切り捨てるわけにはいかないということで、
「記憶喪失になった人には戻るところがある」
ということだ。
だから、
「記憶喪失になった」
というのが、本人に関係なく、
「本人が戻ることができる場所ということで、本人の意思に関係なおところで、いかに、記憶喪失を利用するか?」
ということになると、
「元々、本来戻ることになっているはずの場所に、誰が代役としているのか?」
作品名:国家によるカプグラ症候群 作家名:森本晃次