国家によるカプグラ症候群
「記憶を失っている時ほど、何かの超能力のようなものを発揮できるかも知れない」
とも感じる。
「人間の脳というのは、一割くらしか使っていない」
ということを言われている。
だから、よく、
「超能力」
と言われるものは、誰もが持っていて、それを発揮できるかどうかが、その人の能力のようなものではないか?」
ということである。
もちろん、物理的に不可能なこともあるだろうが、やろうと思えば、
「テレパシー」
であったり、
「予知能力」
のようなものであったら、できるのではないかということである。
しかし、他の超能力というと、
「相手を攻撃する」
というものであったり、
「瞬間移動」
のように、
「物理的に無理なのではないか?」
と考えられるようなものは、できるかどうか、微妙は気がするのであった。
記憶喪失というものは、
「ひょっとすると、そんな超能力の世界に対しての、一つの渡し船のようなものではないだろうか?」
といえるのではないかと思うのだった。
人間は、
「二兎を追うもの一と燃えず」
という言葉であったり、
「神は二物を与えず」
という言葉があったりと、決して、
「欲張ってはいけない」
ということを、一種の戒律のようにしているではないか。
それを考えると、
「世の中というのは、理不尽ではないか?」
といえる。
「欲というものがないと人間は、成長できない」
といえるだろう。
両面から、理屈を満たすのは、
「人間のテーマであり、しかも、それは人間にしかできないことだ」
といえるのではないだろうか?
そうやって考えてみると、世の中において、
「記憶喪失の人間と、超能力を使える人間とでは、どっちが多いのだろう?」
と考えてしまう。
これは、あくまでも、その人の発想なので、何とも言えないが、
「何となく、記憶喪失の方が少ない気がする」
と思っている。
というのは、
「超能力を使える人間というのは、本当は記憶喪失の人間にしかできないことではないか?」
と考えるのだ。
しかし、逆に、
「記憶喪失の人間すべてが、超能力を使えるわけではない」
と考えると、
「記憶喪失の人間の方が多いような気がするのだ」
やはり、
「ショッキングなことで引き起こされる記憶喪失もあるからだろうか?」
と考えるが、
「超能力というものが、潜在しているということを考えると、何かのショックで、いわゆる、覚醒するということになる」
ということであれば、
「記憶喪失になった瞬間に、超能力を使えるようになるとしても、それは、無理もないことではないか」
といえるのではないだろうか。
もっといえば、
「超能力というものを、どこまで人間が科学的に理解しているか?」
ということと、
「記憶喪失に対しては、科学的というよりも、人間の生理的な部分との比較になるのではないか?」
と考えることで、
「記憶喪失と、超能力というものの、因果関係」
というものが、どこまで証明できるか?
ということに繋がるのではないかと思うのであった。
記憶喪失も、一つの超能力だとすると、
「潜在意識」
というものが、
「超能力に結びついてくる」
といえるのではないか?
「潜在意識のなせる業」
ということであるならば、そこに介在しているのは、
「夢」
というものではないかといえるだろう。
夢というものが、
「潜在意識のなせる業」
ということになれば、よく病気の代表格のように言われる、
「夢遊病」
というのも、まるで、一つの超能力のようなものだといえるのではないだろうか?
「夜歩く夢遊病」
ということで、自分が、うろうろする時というのは、眠っている状態だという。
だからこその、
「夢遊病」
なのだろうが、
「よくこれで、躓いたり、こけたりしないものだ」
といえるだろう。
ちゃんと、よけるところはよけて歩いているのが、夢遊病で、目を瞑っているように見えるのに、潜在意識の中では見えているということなのか、実に不思議な感覚だといってもいいのではないだろうか?
「夢遊病と超能力」
似て非なるものだといってもいいのではないだろうか?
実際に、記憶喪失ではない、普通の状態でも、なかなか覚えていないということも多いものだ。
もちろん、
「人の顔を覚えられない」
というのもそうであり、
「間違えて声をかけてしまった」
という時の恥ずかしさから、自分の意識の中で、
「完全に分からなくなってしまった」
ということだってあるわけで、それが、
「覚えられないのか?」
それとも、
「忘れてしまったのか?」
ということすら分からないという意識になってしまっているということを、自分でも分かっていないということになるのだろう。
そんな中で、
「記憶喪失の人が、本当にどれだけいるのか?」
ということと、
「記憶喪失の人と、超能力者とが、どれくらいの比率なのか?」
などという、少し突飛なことを考えてみると、さらなる突飛な発想が浮かんでくる。
とはいえ、本来であれば、
「こっちの方が最初に思い浮かぶことではないか?」
と考えられることであり、それが、
「超能力者と、記憶喪失者の間で、テレパシーのようなもので会話ができているのかも知れない」
と感じるのだ。
たとえば、
「人間同士であれば、言葉というものが存在し、それぞれお互いにコミュニケーションというものがある」
といえる。
しかし、他の動物であれば、犬などは、
「ワンワン」
としか言っていないように思えるが、それはあくまでも、
「人間として聞いているから」
ということで、犬の耳には、会話が聞こえているのかも知れないということに相違ないのではないだろうか?
人間にだって、、
「ある程度以上の年齢になると聞こえなくなる」
と言われる
「モスキート音」
というものがあるではないか、
それを人間は、ステルスとして、兵器に使おうとしているが、動物の声帯解明ということで、
「ひょっとすれば、役に立つのではないか?」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「旧約聖書」
の中にある、
「バベルの塔」
の話であるが、これは、
「人間が神に近づこうとすると、裁きを受ける」
という話であるが、
「この時に、神から受けた裁きというものが何であったか?」
ということである。
この時に、神が行ったのは、
「人間の言葉を通じなくして、皇帝にとっての、臣民であったり、奴隷たちは、誰もが言葉が通じなくすることで、全世界に、人間を散らばらせることになった」
というのが、
「神からの裁き」
であり、
「神からの戒め」
ということでもあるのだろう。
そんな記憶喪失という人たちがたくさんいる中で、一つの都市伝説のような話が浮かんでくるのであった。
それは、
「そもそも記憶喪失というのは、何かの暗躍している力というものが存在していて、それが、超能力のようなものなのか、それともm人間の本能とでも呼べるものなのか、そのどちらかであり、そのどちらでもある」
というような考え方であった。
作品名:国家によるカプグラ症候群 作家名:森本晃次