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国家によるカプグラ症候群

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 しかし、人間には、見える範囲に限界というものがあり、
「無限ということはありえないので、永久ということもありえない」
 といえる。
「形あるものは、必ず壊れる」
 という考え方で、昔の書物である、
「平家物語」
 というものの中に書かれている、
「諸行無常」
 という言葉と同意語である。
 そういう意味で、合わせ鏡のような、
「理論的には、永遠」
 と思われることでも、絶対に最後にはどこかで永遠ではなくなるということになり、それが、
「限りなくゼロに近い」
 というものになるということである。
 同じ考えが、
「永遠い交わることのない平行線」
 という発想と、考えは同じなのだろうが、最後には、
「諸行無常」
 ということで考えると、
「この二つが、平行線である」
 ということは考えられないということが言えるのではないだろうか?
 そんな平行線で、
「記憶というものをたどる」
 ということになると、その道しるべとして、
「覚えているかどうか?」
 あるいは、
「忘れない」
 ということの両方から探るということになるだろう。
 記憶が定かでないという時、
「覚えているかどうか?」
 という時、覚えることに、抵抗感がある場合、つまり、人の顔を覚えているつもりで、実は、
「間違えたらどうしよう?」
 という意識が強く、そのために、覚えることを自らが拒否し、それを、
「忘れてしまった」
 と思い込むようになったのかも知れない。
「覚えられない」
 ということと、
「忘れてしまった」
 ということの、どちらが、自分に正当性があるかというと、
「覚えられないことだ」
 と思うのだ。
 だから、まわりには、
「覚えられない」
 といっておきながら、実際の意識としては、
「忘れてしまった」
 と思っている。
 幸いに、まわりは、
「覚えられない」
 ということで納得してくれているのだ。
 自分だって、人から、
「私、人の顔が覚えられないんですよ」
 と言われたとすれば、一切の疑いを持つこともなく、
「ああ、そうなんですね」
 といって、疑いを持つことをしないだろう。
「覚えられないこと」
 と、
「忘れてしまうということ」
 この二つは、
「加算法」
 と
「減算法」
 のようなものなのかも知れない。
 ただ、普通によくいう、
「加算法」
 と
「減算法」
 というわけではない。
 それぞれに、途中で、必ずすれ違うところがあるはずだ。
 だから、本人が気づかなくても、まわりの誰かがどこかで気づくということになるだろう。
 それを分かっていながら、見えてこないというのは、やはり、その二つというのが、
「交わることのない平行線」
 だといえるからなのではないだろうか?
 それを考えると、
「記憶喪失」
 というのは、一筋縄でいくものではなく、一人一人違う症状であるため、医者やまわりがいかに、その状態に対処していくかということが問題なのではないかと考えるのであった。
「交通事故による記憶喪失」
 というのも、そうである。
 パターンは、いくつもあるのである。

                 身代わり

 記憶喪失という人がここ数年増えてきた。
 前章のような、
「外的な事故」
 などによって、頭を打ったなどということがあるわけではないのだが、
「急に朝起きると、何も覚えていない」
 という記憶喪失もあれば、
「アルツハイマー」
 のように、少しずつ忘れていくという病気もあるのだった。
 実際に、昔からも、
「若年性のアルツハイマー」
 というのも少なくはなかったが、それよりも、
「いきなり記憶を失ってしまう」
 というようなことは、ほとんどなかったはずである。
 それなのに、なぜか記憶が、いきなり失われるという現象が増えてきた」
 というのが、実に不思議なことであり、医者や心理学者が頭を抱えるような事態になってきたのである。
「何が一体、こんな状態にしたんだ?」
 ということである。
 こちらも、昔から、ごく希少な例ではあったが、ないわけではなかった。
 しかし、ここまで増えてくると、大きな問題になってくる。だから、医学界と政府が協議した結果、
「このことは、できるだけかくしておこう」
 ということになった。
 もし、マスゴミなどに感づかれたとしても、
「分からなかった」
 ということでごまかそうということであった。
「それは、学者界隈の中では、恥になるのでは?」
 と言われるのだが、それでも、社会問題を引き起こし、自分たちがどうすることもできない状況に陥って、そこで、大きな問題とされた場合とを天秤に架けると、
「知らぬ存ぜぬ」
 で押し通す方が、自分たちの害は少ないと考えたのだ。
 それが正しい方法なのかどうかは分からないが、少なくとも、今考えられる場面では、その方がよほどましに見えるのだ。
 それを考えると、
「今の自分たちの立場が、前に進むにしても、立ち止まるにしても、後ろに下がるにしても、どれをいっても地獄だ」
 ということになるだろう。
 学者や医者の有識者は、どうしても、保身に走ることが多いが、それでも、判断が付きにくいほどの状況に、
「国民が気づく頃には、少しでも収まってくれていればいい」
 ということを考えるしかないということで、今のこの世の中というものが、
「他力本願でしかない」
 ということが言えるのではないかと感じるのであった。
 今のこの世の中が、どの方向に向かえばいいのか、
「一番わかりにくい世の中」
 だといってもいいのではないだろうか?
「ひょっとすると、社会全体が、隠蔽体質の社会になっているのではないか?」
 という、まるで、
「世の中が生き物のようなものではないか?」
 と考える人もいたが、それこそ、
「お前はバカなんじゃないか?」
 とばかりにいわれることを恐れている。
 自分のこの意見に自信めいたものが育まれるにつれて、その思いは強くなる。
「それでも、地球は回っている」
 と言った、
「ガリレオ・ガリレイ」
 を思い出すからに違いないのだ。
 記憶喪失になると、もちろんのことだが、
「自分が誰であるか、どこの人間なのか?」
 ということがわからない。
 しかし、不思議なことに、
「生活をする上で絶対に必要なこと。つまりは、本能」
 と呼ばれるようなことを決して忘れるわけではない。
「自分が誰か分からないのに、言葉を忘れているわけではない」
 さらに、
「どこで生活をしていたか分かっていないのに、生活をするための、例えば、食事であったり、睡眠を忘れるということはない」
 さらには、
「学校の記憶はないのに、覚えたであろうことを勉強であれば、覚えているということもあったりする」
 ということである。
 それが、本能的なことであったり、普通に覚えられるということであれば、記憶喪失になっても、忘れているということはないというものなのかも知れない。
 それを思うと、記憶喪失というのは、
「一種の病気」
 ということであり、自分が忘れてしまうのが病気だと思えば、
「何かの特効薬というのも、どこかに存在しているのではないか?」
 と感じる。
 もっといえば、