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国家によるカプグラ症候群

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 いや、大きな影響を与えるのが、文学作品なので、こちらは、最初から、
「ヒューマンタッチ」
 という形で書いていくと、読者を一つの方向に誘ってしまうということで、
「ミスリードしてしまう」
 といえるのではないだろうか?
 あくまでも、発想は豊かにするという余地を残しておいて、
「自由な発想」
 というものを残すということで、
「ストーリー展開によって、読者が、ヒューマニズムを感じる」
 というやり方が望ましいのだろう。
 だから、この感覚は、
「映像作品」
 というものから見れば、
「脚本」
 というものに考えが及び。つまりは、
「小説と、脚本とでは、根本から考えが違う」
 ということに結びついてくるのかも知れない。
「小説と脚本の違い」
 ということを問題にする人も多いだろう。
「脚本は、小説のような原作があってのもの」
 と思っている人も多いだろうが、それだけではない。
 ドラマなどでは、
「脚本家オリジナル」
 というものも結構あり、
「原作を含めて、脚本家が書く」
 ということが多いといわれている。
 だから、
「原作がない方が大変だ」
 と思っている人が多いかも知れないが、
「一概にそうも言えない」
 ということでもあるようだ。
 というのも、
「原作の小説であったり、マンガなどは、セリフであったり、シチュエーションを、そのまま映像に使えるようにするために、一種の映像作品にするための、台本という形のものをシナリオというのだ」
 ということである。
 だから、普通に考えれば、
「原作に忠実に書けばいい」
 ということになるのだろうが、そうしてしまうと、
「原作には、絶対に敵わない」
 ということになるのだ。
 それは、どういうことなのかというと、
「小説には絶対に敵わないものがある」
 というのだ。
 それが、前述にもあるように、
「想像するという力」
 である。
 原作には、
「読者を想像力へとリードする書き方があり、その技法を持っているのは、
「小説家」
 という人たちである、
 しかし、映像作品には、想像力を掻き立てるものはない、あくまでも、
「目の前に見えていることがすべてなのだ」
 ということである。
 だったら、
「想像力に匹敵するものを、いかに引き出すのか?」
 ということが、それが、
「演出家」
 のドラマへの設計力であり、さらに、
「演者」
 である、俳優の人たちの、いわゆる、
「パフォーマンス」
 が、引き立てることになるのだ。
「ドラマの設計図」
 である脚本が、それら、演出家であったり、演者としての俳優が力を発揮できないということになると、
「ドラマという映像作品は、絶対に、原作と呼ばれる小説には勝てないのである」
 ということになるだろう。
 実際に、昔、
「読んでから見るか? 見てから読むか?」
 というキャッチフレーズの映画があったが、あの頃でも、
「映像作品は、原作にはかなわないよな」
 と言われ、
「読んでから見るというのは、辞めた方がいい」
 と言われていたのを思い出した。
 それが、原作と脚本の違いであり、まるで、交わることのない平行線だ」
 と言われたものだった。
 記憶喪失というと、よく聞く話として、
「交通事故」
 などのショックにより、記憶を失うということが結構多かったりする。
 事故による肉体的な障害は消えたとしても、精神的なショックで、記憶が戻ってこないということも多かったりする。
 ただ、この場合は、
「思い出したくない」
 という意識はなく、普通に、
「思い出せないから、思い出すことができない」
 ということであれば、分かるのだが、実際に、
「記憶を失う」
 ということを、
「メカニズム」
 ということで考えると、そう単純なことではないといえるのではないだろうか?
「記憶」
 というののが、
「覚えていることなのか?」
 あるいは、
「忘れない」
 ということなのか?
 ということにもよるというものだ。
 人の中には、
「人間の顔を覚えられない」
 という人も結構いる。
「一緒に1時間以上もいて、覚えているはずなのに、数時間も経てば、覚えていない」
 という感覚である。
「覚えていない」
 ということで考えると、想像もつかない発想なのかも知れないが、
「忘れてしまった」
 ということであれば、一つの仮説を思い浮かべることができるというものだ。
 というのは、
「他の人の顔を見ることで、前に覚えたはずの人の記憶が上書きされてしまい、覚えているかも知れないが、新しい記憶で掻き消されてしまった」
 ということになるのであった。
「覚えているはずなのに、なぜか覚えていない」
 というのは、
「新たな記憶で上書きされる」
 と考えると、それは、
「忘れてしまった」
 つまりは、
「忘却の彼方に、放り投げられてしまった」
 という感覚に近いのかも知れない。
 だとすれば、
「覚えられない」
 ということではなく、
「忘れ去ってしまった」
 ということになり、
「覚えていない」
 ということと、
「忘れ去ってしまった」
 ということは、お互いに、こちらも、
「決して交わることのない平行線」
 ということになるのだ。
「小説と脚本」
 という考え方でもそうであるが、
「交わることのない平行線」
 という考え方は、
「何か二つのことが存在すると、それは、必ず最初に考えることであって、その時点で、解決することになるのかも知れない」
 というものではないだろうか?
 さらに記憶喪失というと、交通事故のような、
「外的な要因」
 からではなく、精神的なショックから起こることもあるというではないか、
 しかも、その可能性が高いことは、なかなか思い出せないということが、実際に、
「外的なショックによるもの」
 という時と、症状が似ているということからも、分かりにくいということで、
「厄介なことだ」
 といえるのではないだろうか。
 というのも、
「心的外傷後ストレス障害」
 という、いわゆる、
「PTSD」
 と呼ばれるものがそうであり、
「戦争、災害、事故、犯罪、虐待」
 などというものによって受けた、
「心の傷」
 が、あとになって出てくるというようなものをいうのである。
 今の時代であれば、日本に限っていえば、
「戦争」
 というものは、憲法によって、禁止されていることで、ほとんどないといえるだろう。
 しかし、災害、犯罪というのは、昔から消えることもなく、半永久的に続くものとして、これも、
「交わることのない平行線のごとく、消えることなく続いているものだ」
 といってもいいだろう。
 例えば、
「合わせ鏡」
 であったり、
「マトリョシカ人形」
 と呼ばれるものも、その発想に近いものだといえるのではないだろうか?
「合わせ鏡」
 というのは、
「自分の前後、あるいは、左右に鏡を置いて、そこに映っている自分を見ていると、その先には、もう片方の鏡があり、そこには、もう一人の自分が写っている」
 という仕掛けである。
 つまり、
「半永久的に伸びていくもので、理論的には永遠に続くものだ」
 ということである。