国家によるカプグラ症候群
と組むことで、いろいろな研究により開発した薬を受注してくれることになったのだ。
以前のような、
「大量殺戮」
というような物騒なものばかりではなく、逆に、
「人間を増やす」
ということでの、今は、
「国家的に反対はされているが、あくまでも、グレーゾーンということで、結果的に、明らかな開発まではできていないということで、研究も半ばというものも、いくつかあったりする」
ということであった。
例えば、
「クローン技術」
などである。
人間以外では、結構進んでいるようには聞いているが、実際にどこまでできているのかということは分からない。
「食糧問題などに貢献する」
ということにはなるのだろうが、今研究しているのは、
「タブーへの挑戦」
ということで、
「クローン人間」
であった。
ただ、一緒に、食糧問題も解決できなければ、
「人間だけを増やしても仕方がない」
とも言われるが、実際にそうであろうか。
というのも、最初は、
「ロボットやサイボーグを使えばいい」
ということで、それらのロボット開発を行ってきたが、実際には難しかったりするのだ。
というのは、やはり、
「ロボット工学三原則」
のように、
「こちらのいうことを聞くロボットでなければいけない」
ということになるのに、実際には、そうもいかない。
彼らが作ろうとしているロボットは、
「絶対に自分たちのいうことだけを聞くロボットでないと意味がない」
ということだったのだ。
しかも、彼らは、
「ロボットにおけるフレーム問題」
として、
「無限の可能性」
というものに対してどうすることもできない。
そうなると、
「ロボット開発は、暗礁に乗り上げる」
ということになるのだ。
「ロボットがダメなら、人間にやらせればいい」
ということになる。
これは、元々の発想に戻っただけのことで、結局は、
「大量殺戮」
ということに繋がっていくのだ。
つまりは、
「クローン人間の政策は、ただの兵士として、いわゆる捨て駒をたくさん作る」
というだけのためのもので、食糧問題も、
「どうせ、すぐに戦場の最前線で死んでいく連中なので、問題ない」
というものだ。
兵士を売ることで、利益を得るという考え方で、養うということを考えると、生まれてから、すぐに戦場に送り出せば、それだけでいいということになり、いわゆる彼らを必要とするのは、戦争屋という連中なのだ。
「戦争屋」
という発想は結構昔からあった。
もちろん、ウワサでしかないが、当時とすれば、アニメや漫画などのSF的な発想で、サイボーグ開発ものなどには、付きまとう発想としてあったりしたのが、この、
「戦争屋」
という発想であった。
そもそも、
「20世紀」
という時代は、
「戦争の世紀」
と言われるくらいに、悲惨な戦争が多かった。
それまでの戦争というと、騎馬隊などによって、お互いが突進してくるという中世から続く先鋒の発展型が多かったのだ。
それ以降の戦争はというと、
「大砲の打ち合い」
などというものから始まることになるので、いきなり突っ込んでいけば、大砲であったり、新兵器である、
「機関銃」
というものの、餌食になってしまう。
ということである。
だから、騎馬による特攻などはありえないといってもよく、特に、
「第一次大戦」
においては、
「塹壕戦」
というものができてきた。
つまりは、塹壕にこもって、自分たちの身を守りながら、相手が消耗するのを待っているということで、完全な持久戦でしかなかった。そのために最初に開発されたのが、
「戦車」
という新兵器であった。
「厚い走行に包まれて、機関銃くらいは弾き飛ばしながら、キャタピラによる進軍で、少々の道になっていないところでも、どんどん進んでくるということになるのだ。
そして、戦車自身にも、大砲や機関銃のような装備を付けることで、
「動く要塞」
というものが新兵器として登場することになる。
さらには、空からは飛行機、飛行船というものが活躍した。
最初は偵察くらいしか使われなかったが、途中から、爆撃に使うようになって、その威力を発揮する。
新兵器は、陸と空だけではなかった。海においても、新兵器が登場する。
というのも、海上ではなく、海中に潜水することで、
「相手に見つからずに、ステルスで攻撃ができる」
という、
「潜水艦」
の登場であった。
実際の兵器は、それだけではなかった。
「大量殺戮」
というだけを目的に考えられた、
「毒ガス」
というのも、実はこれが一番恐ろしく、色も臭いもないので、忍び寄ってきても分からない。
いつの間にか、苦しくなりバタバタと死んでいくというのが、毒ガス兵器だった。
もし、生き残ったとしても、その後遺症は深刻で、ガスマスクなども開発されたが、さすがに、戦闘中であれば、危険でしかない。
「動きも取れずに、戦闘が難しくナウだけ」
ということで、毒ガスという
「大量殺戮兵器」
というものは、どうにもならないといってもいいだろう。
時代が進むにつれ、戦争は止められないものとなり、完全に、持久戦と、消耗戦になった。そうなると、
「軍需産業」
というのは、儲かる業界ということになるのであった。
その後、第二次大戦になると、
「大量殺戮」
というのは、どんどん進化して、さらに、攻撃目標が、元々の、
「陸戦協定」
であったり、
「国際法」
などでは、
「民間人を標的にしてはいけない」
ということになっているのだ。
戦争が激化して、世界規模に広がってくると、次第に、
「一般人を巻き込む戦闘」
というのが、まるで事後承諾のように、
「絨毯爆撃」
といわれる、いわゆる、
「無差別爆撃」
というものが主流になってくる。
確かに、攻撃する側からすれば、
「自分たちの犠牲に比べて、戦果というものが少ないと、自国において、そもそもの、戦争参戦論が下火になってきて、反戦論が浮かび上がってくる」
ということになるのだ。
それは、国家としては実際に困るわけで、
「始めたからには、勝たないと、それまでの犠牲が水の泡になってしまう」
ということになる。
つまりは、
「戦争をやめてしまうと、戦死した人は、犬死」
ということになり、勝利して、相手国に、賠償金を払ってもらななければ、戦争を始めた意味がないということになる。
犠牲にんあった人も、そのために、
「国家のため」
ということで戦ったのではないか。
それを思うと、
「戦争は、やるからには、完遂し、勝利しないといけない」
ということになるのである。
そして、それ以降の戦争は、ソ連を相手に、
「代理戦争」
の様相を呈していて、
「民主主義VS社会主義」
の戦いとなったのだ。
特に軍需産業は、どんどん新兵器を開発し、仮想敵ではなく、本当の戦闘で、
「兵器を消耗してもらわないと、兵器が在庫で溢れる」
ということで、
「需要を見込んで作っているのに、供給を求めるところがなければ、経済的にも回らない」
ということで、
「戦争がない時代になると、武器が余ってしまう」
作品名:国家によるカプグラ症候群 作家名:森本晃次