国家によるカプグラ症候群
「母親なら、長年会っていなかったとしても、自分の子供なら絶対に分かるはずだ」
などというのを、ドラマなどでよく聞くセリフであるが、本当であろうか?
確かに、
「他人には分からない何かの力が働いている」
ということなのだろうが、それくらいのことは、当たり前として言われている。
しかし、
「いくら親だからと言って、分からなければいけない」
というのは、それこど、いわゆる、
「パワハラに近いものではないだろうか?」
何かの理由で、離婚しなければいけなくなり、親権を取られてしまったのだとすれば、母親には、
「幸せになる権利はない」
ということなのか?
と思えるのだ。
何かの事情があるということは、一方からだけの眼で見ると、片方は、どうしても悪者にされてしまう。本当にそれでいいのだろうか?
「記憶喪失を、催眠術で治す」
これは、倫理的に正しいことなのかを考えると、賛否両論というのも分かるということである。
やはり、人間の気持ちであったり、本心や本能のようなものを、他人が、何かの術のようなものを使って左右するというのは、倫理的には、まずいことになるだろう。
そのいい例が、
「洗脳」
ということになるに違いない。
洗脳
「人間が人間を思いのままに操る」
という恐ろしい考えがある。
人を操って、自分の思い通りにする。
あるいは、
「思い通りの社会をつくる」
というのは、人間の中には、少なからず、そのような感情が眠っているのかも知れない。
毎日のように、誰かに何かを言われ、その都度、プレッシャーをかけられて、どんどん精神を病んでくる。
それが、今の社会というもので、
「人からプレッシャーをかけられない社会はないものか?」
と絶えず思っている人もいるだろう。
会社や学校などでもそうである。
「別に変なプレッシャーなどを掛ける必要もないのに、掛ける本人はそうは思っていなくても、掛けられた方は、強迫観念だ」
としか感じていない。
プレッシャーというものが、どういうものなのかというと、他人事だとして聞いていると、
「どうして、そんな強迫観念に囚われる必要があるんだ?」
と思えることも多いかも知れない。
「そんなものは、右から左に聞き流せば、それだけのことではないか?」
と思えるのだ。
昔であれば、
「その意見の方が当たり前」
と言われていたが、今であれば、
「セクハラ」
「パワハラ」
などと言われ、
「攻撃する方が悪いに決まっている」
という風潮になってきているのだ。
それは、
「それだけ、今まで一方的な攻撃に、言われた方が絶えてきた」
ということなのか、それとも、
「被害者の方が社会的立場が強くなる」
という、
「社会風潮のようなものが生まれてきた」
ということなのだろうか。
それを考えると、
「そのどちらも言える」
ということではないかということでもあった。
「確かに、今までは、やられる方は、逆らえない」
という感覚であった。
それだけ、
「弱者というのは、自分から強くならなければいけない」
という考えだったのか、それとも。
「強者をどうにかするのが難しいので、弱者が強くなるしかない」
ということだったのか?
ということであるが、そもそも、弱者が強くなれるのであれば、とっくになっているといってもいいだろう。
自分ひとりでは、どうしようもないから、弱者なのである。
強者と言ってお、相手は団体だったり、複数だったり、あるいは、立場上上の人だったりすることで、弱者にとっては、
「力関係上、どうすることもできない立場だ」
ということになるのである。
それを思うと、
「強者というものは、実質上の強さを持っているのではなく、数の力だったり、権力による、それこそ、パワハラであったりということで、立場上、どうすることもできない状態にいるということが、そもそも、社会の罪悪だ」
と言ってもいいだろう。
そういう意味で、
「コンプライアンス」
ということを、やっと言われるようになったということになるのであろう。
それまでは、弱者を、
「かわいそうだ」
と思いながらも、心のどこかで、
「弱者は、しょせん弱者だ」
と思っているのか、それとも、
「社会体制が、完全に、弱肉強食である」
ということであれば、
「逆らうことはできない」
ということになるのであろう。
そんな時代において、新興宗教が出てくるというのも、無理もないことだ。
そもそも、昔からある宗教というものは、
「死後に極楽に行けるようになるために、この世でいい行いをしていこう」
という考えが多い。
「今、自分たちは苦しんでいるのに、昔からの宗教は、苦しい今を救ってはくれないのか?」
ということを考えると、
「これほど理不尽で、詐欺のようなものはない」
と思わずにはいられない。
「今すぐにでも死んでしまいたい」
と思っているのに、宗教によっては、
「自殺も許さない」
というところもある。
「今を救ってくれず、死後の世界で救われるというのであれば、今すぐに死んでしまいたい」
と思うのに、
「それを許さないとはどういうことなんだ?」
ということである。
だから、昔からの宗教を信じてきた人たちの気持ちが、今の人には分からないだろう。
考えてみれば、宗教がらみの一揆など、ほとんどみんな、皆殺しにされているといってもいいだろう。
特に、
「島原の乱」
などそうではないか。
皆殺しにされてしまって、誰が救われたというのか?
「死後の世界で、極楽に行って救われている」
と言われても、誰か見た人がいるというのか?
もっといえば、
「そもそも、救われるというのはどういうことなのか?」
ということである。
「救われる」
ということと、
「幸せになれる」
ということは一緒なのだろうか?
結局、輪廻転生によって、また生まれ変わるということだけで、それが、いかに、
「幸せだ」
というのか?
「人は生まれながらに平等である」
と言われているが、本当にそうなのだろうか?
金持ちの家庭に生まれてくる人もいれば、貧乏な家に生まれてくる人もいる。時代が違えば、戦国時代の、
「明日をも知れぬ命」
と言われる時代であったり、大東亜戦争のように、
「一億層玉砕」
とまで言われ、
「生き残ることが罪悪とまで言われるような時代」
というのもあったではないか。
もっとも、教育で、
「それを当たり前だ」
として育ち、
「死をも恐れない」
という人間ができあがっていれば、それも、
「一つの社会」
ということで、ほとんどの人は、違和感がないだろう。
しかし、全員に同じ考えを持たせるということは、土台無理なことで、それをしようとすれば無理がいくというもので、
「特高警察による拷問」
というものが蔓延り、それが、
「治安維持法」
という法律で守られる世界というのが、実際にあったのも事実である。
それが、
「大日本帝国」
というもので、
「すべてが悪い」
作品名:国家によるカプグラ症候群 作家名:森本晃次