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小説の書かれる時(後編)

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「もたもたしているうちに、殺されるかも知れないと分かっていたくせに、手続きや何かでもたもたしているうちに殺されてしまった」
 などという、
「いかにも、税金泥棒」
 と批判されても仕方がない状態になっているにも関わらず、それでも、公務員として動けない、雁字搦めの状態は、政府も同じなのだ。
 だから、目の前で崩れていくのに、
「自分だけが助かればいい」
 という発想で、
「危なくなれば、逃げるだけだ」
 というような状態だから、
「音を立てて崩れて言っているにも関わらず、それだけに、政府全員が保身に走るから、どうすることもできなくなる」
 ということである。
 だから、バブルが崩壊した時点で、世の中というのは、誰も止めることができないまま、まったく違う世の中を作ってしまった。
「バブルの崩壊」
 というのは、まるで、
「ワームホール」
 というものを作る結果をもたらしたのかも知れないということになるのだった。
 そんな中、佐久間のところに届けられた届け物というのは、何と、
「デスマスク」
 だったのだ。
 そのマスクの人物には見覚えがあった。 さすがに、今生きている人、しかも、高齢ですでに、
「まもなくお迎えが来る」
 というような人のデスマスクなど作るわけはなく、
「見たことがある」
 と思うのは、歴史上の人物だったからだ。
 歴史上の人物であれば、デスマスクではなく、
「肖像画をマスクにしただけ」
 と考えればいいものを、見た瞬間に、
「デスマスク」
 だと思った自分が、いかにひねくれた性格をしているのか?
 と感じるのだった。
 ただ、佐久間という男が、歴史というものを、何か他の人とは違った目線で見ているとすれば、それは、いかに考えればいいのか
 と思えてくるのだった。
「デスマスク」
 というのは、古代ギリシャの時代から、記録が起こっている。
記録が残っているということなので、実際には、
「もっと昔からあったのかも知れない」
 しかし、考えてみれば、
「デスマスク」
 というから、不気味に感じるのだろうが、考えてみれば、同じような時代には、エジプトで、
「ミイラ」
 というものが存在し、
「死体の保存を図った」
 ということがあったではないか。
 つまりは、ミイラというものも、デスマスクというものも、
「死んだ人に敬意を表しながら、その生存の証として残しているものだ」
 と考えれば、
「ミイラ」
 というものの存在を認めるのであれば、
「デスマスク」
 の存在を気持ち悪いと思うのは、おかしいといえるのではないだろうか?
「ミイラというのは、有名で、代々のファラオが、ピラミッドやスフィンクスとともに、未来に残そうとしているのだ」
 ということが研究されてきているのに対し、デスマスクには、そのような風習があるわけではなく、実際に現存もしていない。
 記録として残っているだけで、その目的も分からない。
 ただ、
「王様であれば、富と権力にものを言わせて、未来に残るピラミッドやスフィンクス」
 というものを、その力を使って残すということはできるんだろう。
 しかし、それができるのは、
「ファラオ」
 のような権力を持った王だけで、一般の市民にはできないので、せめて、
「マスク」
 のようなものを作って、
「永遠に残す」
 というようなことはできないだろうが、せめて、子供の世代か、孫の世代くらいまでは、「肖像画というイメージで残してもいいいのではないか?」
 ということであった。
 確かに肖像画であれば、普通のことなのだが、それはあくまでも、
「現代だから」
 ということで言えることなのだろう。
 しかし考えてみれば、
「肖像画であっても、マスクであっても、その人尾意見を示すということであれば、どちらでも構わないのではないか?」
 と考えた。
「絵の方が、保存力がある」
  ということであったり、
「マスクはすぐにダメになる」
 と考えたとすれば、どうして肖像画だけが残っているのかということは分かるというものであった。
 そんなマスクが、
「気持ち悪いものだ」
 ということがいわれるようになったとすれば、それは、探偵小説であったり、ホラー小説に出てきたからではないだろうか?
 実際に、そんな小説をたくさん読んでいるわけではないが、確かに、以前読んだ小説の中に、
「デスマスク」
 つまりは、
「死仮面」
 というものが送られてくるというような話を読んだことがあったというものだ。
 そんなデスマスクというものが、佐久間に送られてきたということは、しばらく誰もしらなかった。
 本人が、
「デスマスクが送られてきた」
 などということを離すこともなかった。
 話をしたとしても、それは、誰にでもいえる話ではなく、親友のような相手でなければ言えないだろう、
 ちょうどその頃、佐久間は、
「そんなに親しい友達がいたわけではない」
 ということだったのだ。

                 断捨離

 ちょうどその頃、佐久間は、
「友達の断捨離」
 というものをしていた。
 そもそも、芸術家ということで、普段から、
「友達の多い方ではない」
 ということであったが、
「友達が少ないというのは、どうでもいい人がいないということで、今付き合っている人は親友といってもいい人だ」
 といっていた。
 それなのに、佐久間は、その中から、
「さらに断捨離をしよう」
 と考えていたのだ。
 ただ、佐久間という男は、友達というものを、
「親友」
 という言葉よりも、
「同志」
 と取られる方がいいと思っていたようだ。
 つまりは、
「仕事をしたり、目指すものが同じである人たちとの絡み」
 という意味の相手を、
「友達」
 と言ったり、
「親友だ」
 ということにしているのだった。
 だから、自分のまわりは、
「同じものを目指していたり、自分のためになるという人しか、近寄らせない」
 と思っているのだった。
 佐久間にとって、
「親友」
 という言葉は、
「同志」
 と、同意語だと思っていたのだ。
 だから、断捨離をするにあたって、それを聞いた、その人の頭の中には、
「佐久間は、自分の目指すものが変わったのではないだろうか?」
 と考えるようになったと思ったのだった。
 だから、
「断捨離」
 と聞いた時、その人には、
「違和感がなかった」
 というもは、
 佐久間にとって、親友を断捨離するということは、本当に部屋の掃除をしている時、
「いらないものを捨てる」
 という程度のものに思えたのだ。
 それは、佐久間にとって、
「同志」
 というものが、自分で言っているよりも、まわりから見ると、薄っぺらく見えたからだった。
「同志」
 というと、まるで、
「共産主義国」
 のようだと思われるが、それは、佐久間自身が、
「同志」
 という言葉を使っていたのを聞いて、軽い気持ちで、
「まるで、共産圏のようないい方だな」
 と言った人が、佐久間から、
「断捨離された」
 ということがあったからだ。
 その人は、
「軽い気持ちでいっただけなのに」
 ということであったが、佐久間にとって、その言葉は、タブーだったようで、
「断捨離」