小説の書かれる時(後編)
「ああ、じゃあ、人と違いさえすれば天才なんだ」
と思うと、
「人と同じことをしなければいいんだ」
と思うようになった。
それは、親や先生が教えることと、まったく正反対だった。
「人は一人では生きていけない」
ということから始まって、
「だから、皆と強調しないといけない」
という考えにいたる。
これも、まあ、当然の考えであろう。
「人と違うことをすれば、嫌われて、人と協力できずに、孤立してしまう」
というような考えを、大人は持っているようだ。
「本当は違うかも知れない」
とも思ったが、大人の言っていることを総合して聴いてみると、
「どうしても、皆と同じでなければいけない」
ということに共通しているようにしか思えないのだった。
もっといえば、
「人と違うことをしていると、孤立して、一人では生きていけないので、死ななければいけない」
という極論にいたってしまうように思えてならないのだ。
それを思うと、最初こそ、
「生きていくためには、仕方が合い」
と子供心に思った。
しかし、伝記などを読んだりしていると、
「世界的な偉人」
というのは、皆、どこか突出しておかしなところがあった。
というのは、あくまでも、自分たちの考え方ということからなので。
「おかしいこと」
というのが、
「大人が自分たちに教えた、いわゆる、一般常識」
というものであって、
「本当に、一般常識を知らないと生きていけないんだろうか?」
と思ってしまうのだった。
確かに一般常識というのは、知らなければいけないことではあるが、そればかりを実践していると、
「結局、皆同じレベルにまでしか達しないので、それ以上というのはありえない」
と、少し子供から大人になってくると感じるのだ。
それでも、大人が、
「平均的な大人になる」
ということを教育だと思っていることに、疑問を感じてくるようになる。
学校の試験でもそうではないか。
ほとんどの試験で、赤点であったとしても、数学だけは、毎回満点だということになれば、佐久間などが思うのは、
「数学に関しては、天才だ」
と思うだろう。
しかし、大人が言っている、
「平均的な大人になればいい」
というのは、平均点が、例えば、
「70点」
ということであれば、なってほしい大人というのは、
「すべてのテストで、70点以上を取れる子供だ」
ということになる。
もちろん、子供が成長する中で、どれか一つだけが特化していたとしても、その一つのことで伸び悩めば、後が全部落第なのだから、
「完全な劣等生だ」
ということになることだろう。
しかし、すべてが、少しだけであっても、
「平均点以上であれば、いくらでも潰しがきく」
ということになるだろう。
その方が、親としてはいいと思っているのだ。
正直、
「気が楽だ」
ということになるのだろう。
そう思うと、
「何も突出することはなく、人並みでいいんだ」
といっているのは、
「子供にとっても安心感につながると思っているのかも知れないが、この上のないプレッシャーにも繋がっている」
ということを、親は失念しているということになるのだろう。
と考えられる。
だから、佐久間少年は、そのあたりのことを、思春期の頃に感じるようになった。
思春期というのは、考え方が、紆余曲折し、結論がなかなか出ないものであるが、この時期に考えるということは、
「逃げることができない時期」
ということで、敢えて、迎え撃つ必要があるのだろう。
その中で、自分が決めた進路であったり、その道を切り開くということは、その時期に、自分で曲がりなりにも決めた生き方が、その後の自分の運命を変えるのだということが分かっているのかどうなのか、実に難しいところである。
「思春期というのは、成長期ということでもあり、心神ともに、一緒に成長すればいいのだろうが、普通は、どちらかが、先に進み、後から耗一つが追いかけてくる」
ということになる。
だから、それを、自分で分かっていないと、心神のバランスが崩れてしまい、その安定しない状態のまま大人になってしまうと、
「精神疾患」
というものを患うことが多くなってしまうのではないか?
とも考えられる。
ただ、最近の精神疾患というものは、昔の根性論で何とかなるものではなく、
「結果として、うまくいかないのは、外的な要因に、社会問題などの、深刻な部分が潜んでいるからだ」
といえるのではないかという考えと、
人間の構造が、身体だけではなく、頭や神経に及ぼす影響が、大いなるものとして映るだけに、その全体像をつかむことができず。
「正体不明」
ということで、どうすることもできないということを思わせることになるのではないだろうか?
それが、一番影響を与えるとすれば、
「子供が大人に変わっていく」
というところである、
「思春期」
という部分ではないかと考えられる。
そこで、昔の大人が考える、
「平均的な大人になる」
ということが、今の時代では、難しいことになり、むしろ、
「一つに特化した大人になる」
ということの方が、どれほど難しくないという世界になってきているのだとすれば、
「今までの常識は、非常識だ」
というようなことになったとしても、不思議ではないだろう。
大人というものが、子供に与える影響がどこにあるかということを、子供は分かっている。
だから、大人が教えることに、一度は、
「おかしい」
と感じるのだ。
しかし、結局は、
「ああ、大人のいうことは間違っていない」
と感じるきっかけになるものが、今までの死守期の中ではきっとあったのだ。
それが、最近では、大人がいうような、
「平均的な人間が、間違いない」
という発想を持ったエピソードが自分の中にできてこない。
というのは、一言でいえば、
「時代が変わった」
ということなのかも知れない。
これは、世の中にある社会というものを構成しているのが、大人の世界で、
「学校」
ともいえる会社の中で、これまで
「常識だ」
と言われていたことが、ことごとく、壊れていくのが、見えるようになったからではないだろうか?」
その壊れるきっかけとなったのが、
「バブルの崩壊」
ではないだろうか?
昔から言われていた常識。
つまりは、
「神話と言われていたものが、どれほど覆されたことであろうか?」
というのは、まずは、
「銀行不敗神話」
というものであった
「銀行のような金融機関は潰れない」
と言荒れていた。
その根拠として言われていたのは、
「銀行が破綻しそうになれば、政府が潰れないように対策を取るからだ」
ということであった。
しかし、実際にバブルが崩壊し、銀行が危なくなると、あっという間に破綻した。
それは、
「想像以上に、倒産までのスピードが速かったからだ:
といえるだろう。
そもそも、政府は、すぐには動けない。いくつもの手続きを経て動かないといけないからだ。
それは、警察と同じで、
作品名:小説の書かれる時(後編) 作家名:森本晃次