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小説の書かれる時(後編)

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 だから、人形という意味で、石膏像と同じ感覚になるのだろうが、本質が違っていると思っている。
 前述のように、
「石膏像というのは、その中に埋め込むものが、素晴らしく、命というものが詰まっているというものである」
 と考えているのだった。
 だが、マネキンに対しては。
「まわりを聞かさることで、その美しさがこみあげてくるということで、本来は、洋服を美しく見せるものとして考える」
 ということであった。
 つまり、マネキンは、
「内に籠める美しさ」
 であり。
「石膏像というのは、内側から、こみあげてくる美しさである」
 ということを考えていた。
 同じ人形として、それぞれに美しさを纏うという発想であるが、
「内にこもる」
 ということなのか?
「内から表に現れる」
 というものなのか?
 ということで、正反対ではあるが、その美しさには、
「絶対無二のものではないか?」
 と考えていたのだった。
 それが、佐久間という男の考え方であり、
「佐久間という人間の性格として、双極でモノを見る」
 ということから、
「マイナスとマイナスをかけ合わせれば、プラスになる」
 という意識を持っている人間であった。
 一時期、マネキンをたくさん作っていた、佐久間であったが、最近では、元々作っていた石膏像の方が、多くなっていた。
 石膏像は、なかなか注文があるというわけではないので、あまり、金にならない、製造物ということになる、
 しかし、ある時期から急に注文を受けるようになった。
 それはもちろん、ありがたいことなのだが、
「どうして今頃になって、そんなに石膏像の注文があるのか?」
 ということに、作ることは作るが、疑問がないわけではなかった。
 佐久間が石膏像が好きなのは、
「自分が石膏像が好きだからだ」
 というのがその真相で、
「好きだから作るというのは、当たり前のことだ」
 というだけのことだった。
 それでも、もちろん、マネキンを作るようになってから、そちらの需要が多かったことで、ありがたく、余った時間で、石膏像を作ることができた。
 たまに、どこかの美術館から、
「オブジェ」
 としての依頼がある。
 美術館とすれば、展示品として、高尚なものを展示していることもあって、そちらに巨額の金をつぎ込まなければいけないので、その分、オブジェに大金を叩くわけにもいかない。
 それを思えば、
「オブジェくらいは、そのあたりの工芸作家で取り繕うくらいがちょうどいい」
 ということなのだろう。
 どうせ、そんなに有名でもなく、
「食っていければいい」
 ということで、
「楽しくできればいいんだ」
 という、プロ意識というものに、大いなる欠如を持っていた佐久間とすれば、本当に、適当な毎日を送っていたといってもいいだろう。
 ただ、彼には結構偏屈なところがあり、
「この偏屈さが、ワンチャン、俺の中で、プロとしての可能性を残しているのかも知れないな」
 と勝手に思っていた。
 もっとも、そんなにプロ意識を持っているのであれば、
「自分から、もっと作品を売り込もうとするのではないだろうか?」
 と考えていた。
 プロというものが、どういうものなのかということを、考えた時、自分が子供の頃を思い出していた。
 佐久間少年というのは、子供の頃は、好奇心が旺盛で、何をやってもそつなくできていた。
 だから、まわりも、
「こんなに多方面に趣味を持っていれば、いずれは、どんな才能が芽生えるか楽しみだわ」
 と言っていたのだ。
 本人もすっかり、その言葉を真に受けて、実際にやってみると、確かに、何でもこなせて言ったのだ。
 まわりからは、
「そんなに何でもできるのに、こつや秘訣があるの?」
 という、子供だから許されるという、
「愚問」
 をよく受けていた。
「俺にも、そんなに分からないよ、俺だって、自分が、そんなに皆がいうような素質があるなんて分かっているわけじゃない」
 と答える。
 これは、素直な気持ちなのだが、まわりは、そうは思わない。
 それはそうだろう。
 まわりが、
「佐久間少年には、素質がある」
 といい、自分も、何をやっても、佐久間少年にはかなわない。
 それはあくまでもm大人の人たちが勝手に思っている評価なので、どちらにしても、
「大人の目」
 がそういっているのだ。
 つまりは、
「大人がそう思っているのだから、子供の自分たちに適うわけがない」
 ということから、
「佐久間にはかなわない」
 と思っても無理もないことだ、
 しかし、子供が思っている、
「佐久間の叶わないところ」
 というのは、素質なのか、それとも、努力によって掴んだものなのかということが分からないのだ。
 特に佐久間本人が、
「そんなに努力をしているわけではない」
 といっていることや、見ていて、
「どこでいつ、努力をしているのか?」
 ということが分からない。
 ということで、
「努力によるものではない」
 と見えるのだった、
 そうなると、
「天才肌なのではないか?」
 と言われるのは当たり前のことで、それが、佐久間にとって、
「本当は嫌な見られ方だ」
 ということであったのだ。
 佐久間は。
「自分が天才肌ではない」
 と思っている。
 天才ではなく、
「努力による、秀才肌」
 というのが、自分には似合っていると思っているのだが、それは、元々、自分のことを、
「プレッシャーに弱い」
 と感じていることから言えることではないだろうか?
 というのも、
「佐久間というのは、時々、自分でも想像していないような、
「うっかりミス」
 をやってしまうことがある。
 ほとんどの時はしっかりと気を付けているのだが、急にうっかりするのだ。
 それも、そのタイミングが、
「定期的に起こることだ」
 というものであった。
 というのも、
「普段は気を付けているだけに、おれが定期的というのは、自分の中に、どこか、ぽっかり穴が開くというがあるのではないか?」
 と考えた。
 それを、
「自分が天才肌」
 ということであれば、納得がいくと考えたのだ。
「実に都合のいい考え方だ」
 ということであるが、
「果たしてそうであろうか?」
 と考えるのだ。
 都合のいいというよりも、まるで、
「逃げ道を探っているようだ」
 と感じるのだ。
「最初から、逃げ道を持っていれば、気楽にできるというものだ」
 それを考えると、
「天才肌」
 というのは、最初に逃げ道を持っておいて、その中でできた心の余裕が、いつもまわりに想像もできないような、
「成功をもたらすのではないだろうか?」
 ということを、子供のくせに考えるようになっていた。
 そう、
「子供のくせに、こんなことを考えるのだから、それこそ、他の人にはない天才肌というものではないだろうか?」
 と考えたが、
「天才肌」
 というのは、
「皆と同じではないことで、その能力を発揮するところから見えるものではないだろうか?」
 だとすると、
「その人が天才かどうかということを、どのように考えるかということで、人と同じでなければ、それだけで天才なんだ」
 と考えるようになってきた。
 その時、