小説の書かれる時(後編)
「いいことだ」
と思っていたとして、
「悪いことだ」
と思っているとしても、その人にとっては違うことでも、周りから見ていると、
「同じことだ」
としか思えない。
と、いうことは、その人が思っていることは、戦争を、
「必要悪」
のようなものだと思っているに違いない。
「悪だ」
とオッ持っている人は、そのまま、悪という意識があることで、必要悪という言葉にまったく違和感がなく、
「戦争というものを表現するなら、この言葉以外にはない」
ということなのだ。
しかし、戦争を、いいことだと思っている人は、
「自分はいいことだと思っているのに、まわりは悪いことだと思っているということで、
「まわりに気を遣うということで、せめて悪という言葉をつけて、逃げている」
つまりは、言い訳をしている。
ということにしかならないのだ。
戦争をすることが、いいことだというのは、
「自分よかりの、まわりを気にしていない人間だ」
ということになる。
そんなやつに限って、戦争が起こっても、そいつには、痛くも痒くもないところに潜んでいるということになるのだろう。
それは、
「戦争というものが身近で起これば、安全な場所などどこにもない」
ということを分かっていない。
下手をすれば。戦争を起こした張本人側で、
「起こした側であれば、絶対に大丈夫なんだ」
という、どこから来るのか、根拠のない自信に見舞われることであろう。
普通は、戦争というと、なかなかひょんなことから起こるということは珍しい」
世界大戦のような場合や、今の時代のような、
「核の抑止力」
というものの中では、用心に用心を重ねているので。
「偶発的な事故や事件」
というのが、起こらないようにしている。
どちらにしても、
「大量殺りく兵器」
というものが火を噴いて。
「昔の世界大戦」
であっても、
「核戦争」
であっても、
「最終的にかかる時間」
というのは、天と地ほどの違いはあるが、結果は、ほぼ同じで、少なくとも、一方の都市は、廃墟となり、国民がほとんど死滅しているということになるのだろう。
核戦争の場合は、お互いに打ち合うことで、両者は、戦争が始まったと同時に、すでに廃墟は目に見えている、
しかし、世界大戦の場合は、あっという間に悲惨とはいかないが、消耗戦や、激烈な戦闘を繰り返しながら、結果として、最後には、
「無差別爆撃により逃げ回る」
という、悲惨な自国絵図が、見えてくるだけで、一夜明ければ、屍の山が築かれているというわけである。
単純に両者を比較するわけにはいかない。
結果としては同じような、一言でいえば、
「地獄絵図」
という状態を見せられて、
「これでも、戦争が悪いことではないと言い張れるのか・」
と考えてしまう。
以前のマンガで、
「戦争を引き起こすために、サイボーグを生み出す」
という内容のものがあった。
「戦争は金になる」
と思っていたり、中には、国がまとまっておらず、内乱を繰り返して、自分の国の中がそんな状態になっているので、
「何とかしないといけない」
ということで、
「目を外に向ける」
ということで、内乱軍を一つにまとめ、他の国に侵略にいくというようなストーリーもあった。
確かに、攻められる国は、理不尽かも知れないが、内戦で、国土が荒廃しきっているところとすれば、
「侵略もやむなし」
ということになるだろう。
ただ、そうなると、国連が黙っていないだろう。その中でも、
「世界の警察を自認するところ」
としては、そうもいかない。
そんな国を、
「侵略軍」
ということを、
「世界は許さない」
ということで、経済制裁であったり、何とか説得しようと試みながら、かたや、同時に、攻められた国に、援助物資の名目で、
「戦闘機や戦車。さらには、武器弾薬を送る」
ということをしている。
ただ、
「攻められた国が、一方的に可哀そうだ」
という見方はいかがなものだろう。
「攻めこんだ国のやり方が、理不尽なものだ」
ということで、
「攻めた国を悪」
ということにすると、攻められた方は、実際にはどうなのか分からないが、勝手に、
「善」
ということにされてしまう。
それが攻められた方の国の、ひょっとすれば、最初からの作戦だったのかも知れない。
「彼らも、本当は戦争をしたいと思っていた」
あるいは、
「戦争をしなければいけない」
というまわりには、決して見えてこない、何らかの事情があったとすれば、こんな国に、
「攻められて可哀そうだ」「
ということ、イコール、
「善なのだ」
といってもいいのだろうか。
無償で、救援物資や、食料、さらには、武器弾薬や、兵器まで、
「攻めこまれた気の毒な国」
つまりは、
「被災したということで、気の毒な国を援助するのは当たり前だ」
という、
「勧善懲悪」
という構図を絵に描いてしまったことで、一つの形が、
「間違いないことと」
ということで確立してしまうと、攻めこまれたという理由で、戦争は、
「正義のための戦争」
ということになる。
それは、
「第二次世界大戦における。アメリカが、そうだったのではないだろうか?」
というのは、
「イギリスからの参戦依頼があり、戦争というものをやりたがっていた、当時の大統領が考えたことは、今のような作戦であり、敵対国を、経済制裁などで追い詰めておいて、このままでは亡国となってしまうと思った国が、やむなく、奇襲攻撃を仕掛けてきて、それを、騙し討ちとして、国民に、戦争意識を一気に噴出させるために、行った攻撃と、どこが違うというのだろうか?」
そういえば、
「理不尽に攻めこまれた」
といっている国のダイトウリョウが、その国の閣議に、
「映像参加」
した時、演説で、
「かつての、騙し討ちのようなことがあったことを忘れるな」
とほざいていたが、それこそ、このような状況を知っていたり、このような状況が、そのダイチョウリョウの画策だと分かっている人は、
「ああ、巨大ブーメランだ」
と思って、笑っていたのかも知れない。
しかもやつは、その時、騙し討ちだと言われた、奇襲攻撃を掛けた国にも、援助を要請してきたのだ、
あの演説の後のことであって、
「騙し討ち呼ばわりされた国、つまりは、わが国、日本であるが、どの面下げて、お願いに来れるのか?」
というべきなのであろう。
「歴史を知らないにもほどがある」
ということであったが、恐ろしいことに、もっとひどいのは、
「日本政府の面々」
であった。
何とその時、何があったのかというと、テレビに、その極悪ダイトウリョウの顔が映し出された時、
「遠因が立ち上がっての、拍手、つまりは、スタンディングオベーションではなかったか」
ということであった。
侵攻した国の、国家元首が、
「あの国のダイトウリョウは、まるでナチスだ」
と言っていたということで、ほとんどの人は、
「何をほざいている」
と言っていたが、この時の日本政府の面々を見ると、まるで、映像に映し出されたあの男がヒトラーで、まわりで拍手をしている連中が、当時のドイツ刻印であると思うと、
作品名:小説の書かれる時(後編) 作家名:森本晃次