小説の書かれる時(後編)
電子書籍というのは、何といっても、
「印刷物ではない」
ということで、圧倒的に原価が安い。それを考えると、ネット書籍に時代が移行していくのも当たり前のことなのかも知れない。
「自費出版社系の会社の費用」
として、
「最初から考えていたのだろうか?」
と考えられることとして、一つ考えられるのは、
「在庫のための、倉庫代」
というか、
「必要倉庫の家賃と言えばいいだろうか?」
何を在庫などがあるのかというと、
普通に考えて、一冊の本を出すとして考えた場合、数十冊などというのであれば、それこそ、抜からある、
「知人友人に自費で出版した」
いわゆる、
「人生の記念となるであろう本」
というくらいであれば、普通にあるだろう。
しかし、実際に本を作って、売るともなると、定価が1000円くらいの本だと、出版社からは、1000部というくらいのことを言ってくるのだ。
これは、あくまでも、一般的な出版の話で、プロで売れている作家が出す場合の判断なのかも知れない。
しかし、彼らが出す本というと、
「本を出して、協力出版といっても、出した本の費用は、ほとんど、いや、全部作家に出させよう」
という、
「詐欺商法」
であれば、いくらかかろうとも関係がない。
逆に、たくさん吹っ掛ける方が、その分たくさんの利益を生むということになるだろう。
しかし、その1000部を作ったとして、万が一、本屋にお金を払って、置いてもらえたとして、ほぼ間違いなく、そのすべては、
「返品となる:
ことだろう。
というのも、毎月一体どれだけの本が出るというのか、
プロ作家でベストセラー作家だって、本を出すわけなので、それらの作家5人が一冊出すとしても、平積みで、数列占拠されるわけだ。さらに、他のベストセラーとなっていて、売れている本もあるわけなので、毎日のように、自費出版社の本を売り込みに行ったとしても、おくところがあるわけではない。
それを考えると、
「作ったら、作っただけ、在庫となるのだ。
1000冊がどれほどのものかと考えると、引っ越し用の段ボールでいくつくらいになるのだろう?」
たとえば、一箱、50冊が入ったとしても、一人の作家で、20箱ではないか。
物流倉庫の、パレット一つ分くらいはあり、重量ラックの1スペース分は占領することになる。
となると、一つの重量ラックのところに。10ほど収めることができるとして、100人の作家の本を在庫として持つと、重量棚が10個必要になる。
1か月で10人くらいが本を出すとすれば、1年で、少々大きな倉庫であっても、重量ラックのほとんどを占拠することになるだろう。
それでも、まだ、売れる商品で、次から次に入出荷が繰り返されるなら分かるが、永遠に出荷されることもなく、どんどん増えていくだけだということになれば、営業倉庫というものが、
「いくらあっても、足りない」
ということになるだろう。
それを思うと、
「在庫というのも、そのスペースを保つだけでも、相当なものである」
ということになる。
何といっても、売れないとハッキリわかっているものが在庫になるわけだ。
なぜかというと、出版社の営業がいったというではないか。
「売れると出版社が見込む本は、芸能人か、犯罪者しかいない」
ということをである。(前編参照)
それだけでも、
「詐欺なんだ」
ということは、容易に分かるというものだ。
それにしても、
「詐欺なのか、そうではないのか?」
ということを考えれば、日本でいえば、ある意味、無罪の可能性もあるかも知れない。
つまり、
「完全に、犯罪行為だ」
ということでもない限り、日本においては、
「疑わしきは罰せず」
ということなので、
「グレーゾーンは、あくまでも、白になってしまう」
ということであろう。
確かに、疑わしきものをクロとしてしまうと、
「冤罪を生んでしまう」
ということになるではないか。
特に、昔の大日本帝国の時代であれば、何があったのかを思い出せば、おのずと分かるというものである。
いわゆる、
「治安維持法」
というものがあった、
名前は、そんなに悪くは聞こえないが、要するに、反政府組織を撲滅するというもので、例えば、共産主義であったり、天皇を批判したりすると、
「不敬罪」
ということで、罰せられたりするのだ。
何と言っても、当時は、
「大日本帝国」
であり、国家元首は、天皇だった。
「有事であれば、国民は、臣民ということで、一部、自由を拘束されたりする」
ということであった。
何んと言っても、当時の日本は、
「軍国主義」
であり、有事というのは当たり前で、宣戦布告の詔を天皇が発する時、最初の条文は、ほとんど同じで、
「国民は、正装勝利に向けて、粉骨砕身の努力を惜しまない」
ということが示されている。
君主としての、国家元首である天皇が発した言葉なのだから、
「国民が守るのは当たり前」
ということであった。
だからこそ、戦時において、
「戦争反対」
であったり、戦争に義がないなどということを言えば、
「非国民」
ということを言われ、国民は、天皇に忠実に尽くす必要があるということだ。
何といっても、戦争をしているのだから、心が一つになっていないと、士気が下がるというもので、相手は必至に攻めてくるのに、攻められる方が、のほほんとしていては、すぐに占領され、
「占領されると、占領軍から、略奪、強盗、強姦などのありとあらゆる虐待に遭う」
というのは、当たり前のことだった。
虐殺されることもあり、何といっても、自分たちを守るための、
「国軍」
のはずなのに、退却する時、
「攻めてくる相手国に物資などを略奪される可能性がある」
ということで、何と、味方の軍隊なのに、守ってくれないどころか、
「相手に、みすみす物資を奪われるくらいなら」
ということで、村に火を放つなどということが平気で行われ、また、自分たちの物資補給のために、自分たちが、味方のはずの一般市民から、物資を強奪したりなどということは、こちらも、当たり前に行われていたのだ。
それが、
「戦争」
というものであり、今に始まったことでもないのだった。
だから、
「戦争というのは、よくない」
ということになる。
しかし、一旦戦争になってしまうと、そうもいかないということであろう。
それは、あくまでも、
「過去に学ぶ」
ということをしないと学習できないということになるだろう。
しかし、基本的に、日本の場合は、今までもそうであったが、
「相手国の首都に攻めこみ、それを占領する」
というような、戦争はうまく行っていない。しいていえば、満州事変のような、クーデターや事件を起こし、そこから、計画している通りに占領するということでもなければあ、うまく行くものでもなかった。
中国とは、全面戦争に引きずりこまれたが、それでも、当時の中国には、多国籍な居留民も結構いたので、変に刺激することもできなかった。
「感情に任せた」
というような事件が、それぞれの側であったが、戦争の過程においては、無理もないことだったのかも知れない。
作品名:小説の書かれる時(後編) 作家名:森本晃次